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2015年3月31日

大気中の有害化学物質のリスクを評価するために

Interview 研究者に聞く

 環境リスク研究センター・センター長の青木康展さんと主任研究員の松本理さんは、大気中に存在する有害化学物質のリスク評価に関する研究を行っています。青木さんと松本さんに研究の経緯や成果についてうかがいました。

青木康展の写真
青木康展/環境リスク研究センター センター長
松本 理の写真
松本 理/環境リスク研究センター 環境リスク研究推進室 主任研究員

大気汚染物質の突然変異の影響を検出

Q:環境の研究を始めたきっかけは何ですか。

青木:私は、生化学や分子生物学が専門で、大学院時代には昆虫の変態を研究していました。国立公害研究所(現・国立環境研究所)に入所したころ、水銀やカドミウムなどの重金属の汚染による問題の解決が環境行政や環境研究の大きな課題でした。そこで、重金属の毒性発現機構を明らかにする必要性を感じて研究を始めました。

松本:私は大学では薬学の衛生化学を専攻しました。研究の仕事をしようと卒業後国立公害研究所に入所し、環境中の有害物質の研究を始めました。

Q:これまでどんな研究をしてきましたか。

青木:海外長期出張から戻ったのちは、ダイオキシン類が遺伝子発現に及ぼす影響を研究するようになりました。それまでは、試験管内で細胞やタンパク質のレベルで化学物質の影響を調べていたのですが、研究を続けているうちに、生物が環境中の汚染物質に曝露されたとき、生体内でどのような反応が起きているのかを知りたくなりました。個体レベルで調べればこの疑問に答えられるに違いないと強く感じたことが、新たな研究を始めたきっかけです。そこで私自身のバックグラウンドを生かし、遺伝子工学の技術を使って、化学物質による遺伝子突然変異を検出できるゼブラフィッシュを開発することにしました。突然変異とは遺伝子の DNAの配列が変化することで、化学物質による発がんの原因にもなる重大な生体影響の一つです(コラム1)。

Q:なぜ魚を使ったのですか。

青木:魚を使えば、水中の化学物質が生体に及ぼす影響を直接観察することができると考えたからです。化学物質による突然変異の検出には、米国で開発されたエームス法という細菌を使った方法がよく使われています。すでに開発が始められていたマウスやラットによる方法を参考にして研究を進め、多くの困難を乗り越え、約 5年間をかけてゼブラフィッシュの開発に成功しました(コラム2)。研究を進めることができたのは、所内に天沼喜美子さん(現:国立医薬品食品衛生研究所)という共同研究者がいたおかげです。天沼さんはゼブラフィッシュの分子生物学に詳しく、この魚を使って研究を成し遂げる強い意志を持っていました。初めて動物の体内で突然変異が起こることを確認したときやその成果を論文として発表したときは感激しました。そして、この経験から、生物を使った環境モニタリングの可能性を真剣に考えるようになりました。

松本:同じ頃(1990年頃)、私は青木さんとは別に、エームス法で都市の大気中の粒子の変異原性(突然変異を起こす性質)を分析していました。

Q:一緒に研究するようになったのはいつからですか?

松本:少したって、ダイオキシン類の遺伝子の発現や転写調節に対する影響の研究に携わるようになってからです。2001年からは、リスク評価の共同研究を始めました。お互いの研究に共通点があったので、研究をうまく進めることができました。

大気中に放出される化学物質

Q:なぜ大気中の有害物質に興味をもったのですか。

変異原物質のDNA への結合(DNA付加体の生成)
ベンゾ[a] ピレン(変異原物質)はDNA上のグアニンに結合することが知られています。(青:DNA、赤:ベンゾ[a] ピレン、緑:グアニン、黄:シトシン)
Fountain MA and Krugh TR(1995)Biochemistry, 14, 3152-3161 より引用

松本:私が入所したのは、都市の大気汚染が社会問題になっていた頃で、所内でも大気汚染の研究が熱心に行われていました。私もその研究に関わり、都市大気中の粒子の変異原性を調べたところ、粒子の粒径の小さいものほど変異原性が高いことがわかり、危機感を感じました。私自身も、たばこの煙やディーゼル排ガスが苦手ですし、これらの発がん性を知っていたので、大気中の有害化学物質に興味をもつようになりました。

青木:折よく、都市大気の下で飼育したラットの肺を分析する機会があり、肺の中に DNA付加体(大気汚染物質が DNAに結合したもの(右に示した図)が生成していることがわかりました。このことは、大気汚染物質が突然変異を誘発する可能性を示します。そこで、大気中の有害化学物質が体内でどの程度の強さの変異原性を示し、発がんにつながる可能性があるのかを明らかにする必要を感じ、新たな研究に取り組むことにしました。

Q:大気中の有害化学物質とはどんなものですか。

松本:大気中には、トルエンやベンゼンなど製品材料として使用される化学物質や、化石燃料を燃やした時にできる燃焼生成物が放出されています。工場で製造される化学物質の一部は、製造や使用の過程で環境中に排出されます。その排出量はPRTR制度により把握されています(コラム3)。集計データによれば、日本では環境中に排出される化学物質の80%以上が大気中に放出されていると考えられます。

青木:燃焼生成物には、発がん性が知られるベンゾ [a]ピレンなどの多環芳香族化合物が含まれ、大気や食物から人が摂取していることが知られていますが、これらの物質の排出の総量はPRTR制度では把握されていません。

Q:大気中の有害化学物質は人体にどのような悪影響を及ぼすことが知られていますか。

青木:発がん性や神経への影響が知られています。 2013年、WHOのIARC(国際がん研究機関)が「屋外大気汚染」を「人に対する発がん性がある(グループ1)」に分類すると発表しました。人は様々な経路により環境から化学物質を摂取しています。水や食べ物に含まれる化学物質なら摂取を抑えるための対策を立てることができますが、いったん大気中に排出された化学物質は、子どもから大人まで誰もが同じように呼吸で体内に取り込むため、皆にあまねく影響が及ぶ可能性があります。大気汚染物質の研究の重要な意義がここにあります。

Q:大気汚染物質のどんな研究をしていますか。

青木:大きく分けて二つの研究をしています。ひとつは、動物実験によってディーゼル排気などの有害化学物質の生体への影響を調べることで、もうひとつは大気中の有害化学物質のリスク評価をすることです。

ディーゼル排気の毒性を明らかにする

Q:ディーゼル排気とは、ディーゼルエンジン車がかつて出していた黒い煙のことですね?

ベンゾ [a]ピレンと1,6-ジニトロピレンの構造

青木:そうです。ディーゼルエンジンの排気は、大気中に含まれる有害な化学物質の排出源のひとつで、ベンゾ [a]ピレン、1,6-ジニトロピレン(右に示した図)などの有害物質を含む微粒子が排出されています。松任谷由実作詞の「青春のリグレット」に、「バスは煙残し、小さく咳き込んだら」という歌詞があります。この歌が発表された1985年ごろは、今から考えると、まだディーゼル排気の規制が十分ではなかったので、バスのディーゼルエンジンからの排気ガスで咳き込むことはあったでしょう。

Q:今では、このような歌詞は生まれませんか。

ディーゼル排気曝露装置の写真
ディーゼル排気曝露装置
突然変異の検出の写真
突然変異の検出
寒天培地上での大腸菌の増殖を確認する

青木:1993年頃から自動車排出ガス規制が段階的に導入され、2001年に成立した自動車NOx・PM法でディーゼルエンジン車の車種規制も盛り込まれました。2009年に施行された新しい排出ガス規制では粒子状物質と窒素酸化物の大幅な削減が義務付けられています。今こんなことがあったら、結構な騒ぎですね。私たちは、実際の大気汚染のモデルとして、突然変異を検出するためのマウスやラットをディーゼル排気に曝露し、突然変異がどのように起こるのかを調べました。その結果、肺だけでなく精巣でも突然変異が起こり、ディーゼル排気の影響は全身に及ぶ可能性があることがわかりました。さらに、遺伝子内の特定の位置に突然変異が起こることが示され、ディーゼル排気の曝露によって突然変異が起こるメカニズムを明らかにする手がかりを得ました。突然変異を検出するための実験動物(マウス、ラットやゼブラフィッシュ)には、突然変異検出用の標的遺伝子が導入されており、そこに発生した突然変異を分子生物学の手法で検出します。従来の微生物や培養細胞を用いる方法に代わり、動物体内で発生した突然変異を調べるのは斬新でした。ゼブラフィッシュを開発した経験があったからこそ、こんな考えに結び付いたのだと思います。

Q:動物実験を行うには、かなり苦労もあったのではないでしょうか。

青木:ええ、当時は遺伝子を導入した実験動物を用いた手法はまだ発展途上で、再現性の高い実験法を確立するまでには苦労しました。でも、この経験はリスク評価を行う上で役に立っています。現在は、大気中の化学物質による変異原性を定量化しようとチャレンジしています。

動物実験データをもとにしたリスク評価

Q:いつからリスク評価の研究を始めましたか。

松本:本格的に研究を始めたのは、2001年に、化学物質のリスク研究を総合的に行う目的で化学物質環境リスク研究センターが新設されてからです。それまでは、大気汚染や水質汚染などのリスクは個別に研究されていました。しばらくして、1,2-ジクロロエタンのリスク評価を環境省から要請されました。化学物質の健康リスク評価とは、化学物質が人や実験動物に及ぼす影響とその量・反応関係を調べ、どのくらいの量まで人が耐容できるのかを判断するものです。日本における大気汚染物質の健康リスク評価は疫学調査の結果に基づいて行われることが多かったのですが、1,2-ジクロロエタンの評価では、人が一生涯曝露された場合の発がんリスクをラットの発がん試験のデータを用いて推定しました。

Q:動物実験のデータはリスク評価に使われていなかったのですか。

青木:はい。これまで環境基準や指針値は、人への健康影響を直接評価できるという原則の下に、疫学調査の結果に基づいて行われてきました。一方、多くの化学物質の生体への影響が動物実験で調べられています。私たちもディーゼル排気ガスによる突然変異を動物実験で調べてきたので、動物実験のデータを指針値設定のためのリスク評価に用いる必要性を強く感じていました。そのころ、私は内閣府に2年間の出向になり、科学技術政策の仕事をしていましたが、科学研究と環境政策の関係についてかなり悩みました。実験科学者としての経験を、環境基準や指針値を決めるリスク評価など環境施策につながる研究にどのように生かすべきかを真剣に考えていました。

Q:指針値と環境基準はどう違うのですか。

青木:環境基準は維持されることが望ましい基準で、行政上の政策目標になるため、排出を抑制する方策が立てられます。指針値は事業者や行政が排出抑制に向けて行動するよう促すために設定されます(コラム3)。

Q:どのようにリスク評価を行ったのですか。

松本:1,2-ジクロロエタンのリスク評価の要請があったのは、ちょうど青木さんの出向中で、私がほとんど一人で担当しなければなりませんでした。方々の専門家に教えていただきながら、動物実験のデータを検討し、数理モデル解析用のソフトウェアを利用して、発がんリスクを算出しました。

Q:リスク評価では何に重点を置いていますか。

青木:リスク評価の仕事の一つは、大気汚染物質の影響が現れないと考えられる大気中の濃度を予測することです。つまり、影響を未然に抑えるための方策の実現に向けて研究することが私たちの使命です。いま、何も影響が見えなくても、それは本当に影響がないのかどうかはわかりません。そこで、影響が顕在化する可能性を示すことも必要と考えています。健康影響の予測に動物実験のデータを活用しようとしても、客観性や再現性が確実なデータしかリスク評価に用いることはできません。また、統計的な取り扱いが可能なデータであることも必要です。よりよいリスク評価を行うためには、これまで実験をやってきた経験がとても大切だと感じています。

指針値設定のガイドライン

Q:その後、ガイドラインの策定にも関わることになったのですね。

松本:はい。センターが中心となって、環境省からの要請により、指針値設定のためのガイドラインの改定を検討することになりました。以前は、職業曝露の疫学研究で得られたデータを優先して評価を行うことが多かったのですが、それには限界があり、最近では動物実験のデータを使うことが必要な状況です。改定されたガイドラインに従えば、どの分野の専門家でも基本的な部分では同じような手順で有害大気汚染物質のリスク評価ができるように内容を検討しました(研究をめぐって「日本では」を参照)。

青木:ガイドラインは、人が大気中のある化学物質を一生吸い続けても影響が認められないと推定される濃度を算出するプロセスを示したものです。このガイドラインでは、動物実験のデータから人への影響をどのように考えていくかを皆が納得する形でまとめることが難しい点でした。

松本:基本的には以前のガイドラインを下敷きにしていますが、動物実験の結果から人への影響を評価する方法についてはずいぶん考えました。多くの専門家の検討を経て、2014年4月に、改定ガイドライン「今後の有害大気汚染物質の健康リスク評価のあり方について」が完成しました。

Q:今後の研究の展望や抱負を聞かせてください。

青木:人の生産活動ばかりでなく、自然現象によっても環境中に様々な化学物質が放出されています。私たちは同時に多くの化学物質に曝露されているので、個別の物質のリスク評価も必要ですが、環境から被るリスクの全体を評価できるようにしたいと考えています。そのためにも、動物実験のデータをもっと生かしていきたいですね。

松本:実験科学の基本はデータの実証性と考えています。リスク評価をより実証性の高いものにして、人々が健康に生活できる社会づくりに貢献したいと思います。

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