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船底防汚塗料・有機スズによる海洋汚染と腹足類(巻貝)のインポセックス

研究ノート

堀口 敏宏

 インポセックス−学会では通常 imposex と表記するこの言葉は造語であり,和訳すれば“雄性形質誘導及び生殖不全症候群”となる。これでは分かりにくいが,要するに,巻貝(多くの種では交尾のため雄にペニスがある)の雌にペニスと輸精管が形成されて発達し,卵形成阻害や輸卵管閉塞などのため産卵できなくなる一連の症状を指す。生殖障害を伴うため,生息量が減少し,個体群の維持が困難になる。現在までのところ,この奇妙な現象は巻貝類においてのみ知られており,すでに生息量が減少してしまっている種が複数知られている。その原因物質は船底塗料などとして使用されてきた有機スズ(トリブチルスズとトリフェニルスズ)である。

 70種を超えるインポセックスの報告が世界各地から相次いでいる。日本産の巻貝については筆者らの調査の結果,少なくとも30種でインポセックスが確認されている。今後さらに調査が進めば,この数はいっそう増えるであろう。またこうしたインポセックス報告種は巻貝の広範なグループを包含しており(表),その被害は文字どおり,巻貝全体に及ぶ勢いである。アワビ・サザエ類への影響の可能性もあり,現在調査中である。

表  腹足類(巻貝)の分類体系の概略とインポセックスとして報告された種類数

 日本沿岸域の有機スズ汚染の程度はイボニシ(新腹足目アクキガイ科)のインポセックスの症状の重さで概観できる(図)。これによると,佐渡の一地点を除いて正常なイボニシ雌がほとんど採集不可能であり(ほぼ100%,インポセックスの雌しか採集できない),三浦半島や浜名湖,鳥羽及び福岡周辺で特に有機スズ汚染が進んでいたものと推察される。さらに産卵不能のイボニシ雌が,例えば三浦半島の油壷(神奈川県)では,高率に存在し,しかも多様な奇形が記録された。写真は,本来卵巣であるべき生殖巣が精巣に転化していたインポセックスの個体である。写真中央の白い液体様の部分が漏れ出た精子である。また流水式暴露試験の結果から,イボニシのインポセックスは1ppt(pptは一兆分の一を表し,例えば,1×10-9g/lである。縦50m,横20m,深さ1mのプールに1gのトリブチルスズが均質に溶け込んだときのトリブチルスズの濃度が1pptである。)程度のトリブチルスズで誘導されることが明らかになった。

写真  精子を産生していたイボニシのインポセックス個体(本来は雌であった”性転換”個体)
図  イボニシとレイシガイの Relative Penis Length Index(RPL Index:相対的ペニス長指数)の分布

 肉食性のイボニシにおける有機スズの濃縮係数は10000〜20000のレベルであり,生物学的半減期もかなり長いと見られる。環境中の有機スズ濃度のモニタリング調査とともにインポセックスとなっている巻貝類の個体群調査も引き続き行っていく。現在,日本を含む世界中で小型(船長25m未満)船舶に対する有機スズ系塗料の使用を禁止する動きはあるが,大型船舶(艦船を含む)に対してはほとんど使用規制がない。有機スズによる海洋汚染問題を根本的に解決する上で,これでは不十分である。有機スズ系船底塗料の使用規制が未だ全く実施されていない国々における使用禁止措置の早期実施は言うまでもないが,それとともに艦船を含む大型船舶に対しても同様に有機スズ系塗料の使用禁止措置を執る必要がある。有機スズの場合,その発生源はほとんど船底塗料なのだから,発生源対策はむしろ容易なケースではなかろうか。有機スズ化合物の製造禁止措置の実施が望まれる。世界各国で有機スズ追放の気運が高まり,それが現実となるかどうかが今後の有機スズ汚染の動向の鍵を握ることになるであろう。

(ほりぐち としひろ,化学環境部動態化学研究室)