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環境情報ことはじめの記

畑野 浩

 この7月,環境情報センターで仕事を始めてみて,とにかくエライことだなというのが率直な印象であった。役所に入ってすぐ研究所の設立準備に,またその後,研究所改組におつき合いをさせていただいてはいたが,何しろ行政官からみれば研究所はまさに未知空間であり,加えて,情報という分野について輪郭がはっきりつかめない部分が多いからである。前者は致し方ないとして,環境情報ということについては,頭の整理をする必要があると思った。少しづつ,調べてみると,いくつかのことが印象に残った。以下その報告まで。

 まず,情報やその処理とはコンピュータや通信ネットワークの整備のことだと言わんばかりに,道具だてばかりを書いたものが世間一般では,やけに多いなと感じた。勉強をするのに,書斎と文房具を整えるようなものとも思ったが,さて少し違うのだということにも気づいた。テレビにせよ電話にせよ,伝統的な情報の伝達の手段が,いずれも我々の五感の延長として機能しているのに比べ,コンピュータは,人間の思考の一部を,記号という手段で外部化しうる装置だという点であり,このネットワークで仕事のやり方が変わるぞと思った。

 次いで,情報処理の数学的分野があって,そこでは熱力学でお馴染みの,エントロピーという用語が使われ,事典にも語の二番目の定義として記載されていることだった。言うまでもなく,かのボルツマンの式と相似する確率論の世界なのであるが,情報というありふれた言葉も,科学の手にかかるとこう変容するのかと改めて感心した。ふと思ったのは,科学と生活の視点の差である。科学は,法則を求めて集団と確率に行き着くが,生活の感覚は,一回限り,何が起きるかを重視しているのではないかということである。環境の分野でも,集団の傾向と同時に個の変動についての注視が必要なゆえんであろうか。

 さらに,情報という用語の難しさである。データ,知識,文献,資料といった用語との区別がある意味ではっきりしないのである。しかし,どうも,情報という言葉は,人間の行動の選択に関連すること,知識と言うほどには体系化されていない断片的で真偽のほどもよく分からないものまで含む大変幅広い概念ということまでは分かってきた。そして環境と情報ということについて,末石冨太郎氏(滋賀県立大学教授)が人間の生活は「資源・エネルギー・情報を手段として人間と環境が交流する」ことと書いておられたのをみて少し納得した思いになった。

 ところで,情報の理論は確率が希な事象ほど情報の量が多いと教える。確率の高い出来事の情報は経験の範囲に止まるということであろうか。環境問題の大先達である鈴木武夫氏(元国立公衆衛生院院長)は,「環境問題というのは,一つの説明に三度重ねてwhyと言われると答に窮するもの」と言われた。環境問題は,常に未経験の問題に悩まされ,実態的に実験不可能な部分を含め,限られた知見の上に論理を構築する必要に迫られる。ここに求められるのは,研究や調査による情報や知識の増加と考えるのはむろん正しいが,評価,判断,行動という実践的な立場を忘れたとき情報の洪水に溺れると思った。

 環境問題における情報の位置づけや如何と言う問いに簡単に答は出て来そうにないが,ひたすらに集めるということでも,最新鋭の機器をそろえるということでもなさそうである。何のため,誰のためということ,そして手順と尺度ということを今少し考えたい。

(はたの ひろし,環境情報センター長)

執筆者プロフィール:

1972年環境庁入庁。以来,大気汚染,有害物質,研究調整が主な仕事の経験。当所との関係は,(旧)研究調整課,環境研究技術課,研修センターを合わせて4度目。仕事に慣れるのと一都三県縦走通勤に必死の毎日。