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ダイオキシンによる生殖機能の異常はどのくらい低い濃度で起きるのか?

研究ノート

大迫 誠一郎

 ダイオキシンは人間の作り出した化学物質の中で最強(最悪)の毒物であるとよく言われる。ダイオキシン類の中で最も毒性が強い異性体である2,3,7,8-Tetrachlorodibenzo-p-dioxin(TCDD)は確かにありとあらゆる化合物の中で,急性毒性による半数致死量(LD50; 投与した動物のうち半数が死んでしまう量)が最も低い値を示す。ただ,いくら最強とは言え,大量生産されているわけではないから,ダイオキシンで死亡者がでることはこれからも(今までも?)ないだろう。問題なのは,ダイオキシンが難分解性で環境中に蓄積しやすいため,われわれの体内にも食物を通して知らず知らずのうちに極微量ずつ入ってくることである。極微量のダイオキシン(TCDD)の投与で生体にどのような変化が生じるのか,これまで多くの報告があるが,中でも,周産期(出産の前後)にTCDDに曝露された仔(ここでは実験動物の子供なので「仔」と書く)の生殖機能への影響がもっとも鋭敏であるとされている。そこで,ダイオキシン汚染の特に激しいとされる日本でも,自ら毒性評価実験をすべく,果たしてどのくらい低い濃度で仔の生殖機能へ影響がでるのか,また,影響が出るとしたらどのような生殖機能が最も感受性が高いのか,独自の解析法で追試してみることとなった。今回は特に雄の生殖機能について検討した。

 妊娠15日目のラットにTCDDを一回だけ強制的に飲ませた。用量はラットの体重1kgあたり低いほうから12.5, 50, 200, 800ナノグラム(ng, 1ng = 1/1,000,000,000g)。この12.5ngが現在まで行われた動物実験でも最も低いレベルのものだった。生まれてきた雄の仔を生後49日目と120日目に検査したところ,肛門生殖突起間距離(AGD, 肛門から陰茎の付け根までの距離。図1A)が対照群に比べて短くなる傾向があることがわかった。統計学的に有意差が生じたのはPND120の50ng/kgからであった(図2)。また,副生殖器官の集合体である尿生殖器複合体(図1B)も対照群に比べて小さくなる傾向があることがわかり,その中でも腹側前立腺の重量が対照群に比べて著しく小さくなることがわかった(図2)。これに対して,精巣や精巣上体(精巣でできた精子の貯留器官)にTCDD投与による変化はなく,また精巣内での精子産生能にも変化はなかった。さらに精巣分泌される男性ホルモンであるテストステロンの血清中濃度にもTCDD投与による変化はなかった。そこでAGDや前立腺がなぜ小さくなったのか検討するため,これらの器官が発育するに際して必要とされるホルモンである5α-ジヒドロテストステロンの合成を行う5α-還元化酵素遺伝子の前立腺内における発現を測定した。面白いことに,予想とは逆の結果として,その発現はTCDDの投与量が多くなるほど増加した(図3)。一方,5α-ジヒドロテストステロンの受容体であるアンドロゲン受容体遺伝子に関しては,TCDDの投与量が多くなるほど減少し,統計学的には最低用量の12.5ng/kgから有意差を示した(図3)。これらの結果から言えることは,TCDD投与は雄性ホルモンの産生は抑制しないが,ホルモンに対する感受性を低下させるため,成熟後にそれらの器官の発育が正常より遅れると言うことであった。実際,この実験方法のもととなったウイスコンシン大学のPeterson博士らの研究結果からも,我々の解析結果と類似の結論(ホルモンの産生に変化はないにもかかわらず前立腺がホルモンに反応しないという実験結果)が導き出されており,5α-還元化酵素遺伝子とアンドロゲン受容体遺伝子の発現変動はTCDDの生殖器官発生影響を考える上で重要な指標となると考えられた。

雄ラットの臓器の写真
図1 雄ラットの(A)肛門生殖突起間距離(AGD),(B)尿生殖器複合体
減少のグラフ
図2 妊娠15日目にTCDD投与して生まれた雄ラットのAGDの短縮と腹側前立腺重量の減少
変動のグラフ
図3 妊娠15日目にTCDD投与して生まれた雄ラットの腹側前立腺内遺伝子発現の変動

 AGDというのは図1にも写真で示したように,フニャフニャな体の小さな実験動物の下腹部をノギスでもって“エイヤッ”と測るものである。また,前立腺というのも素人ではいったいどこが境目か見当が付かない。したがって,これらの距離や重量が統計学的になんとか低いと認められるデータというのは,いったいどのくらい信頼できるのかとの指摘をよく受ける(この研究所の関係者からさえも)。だが,いくら遺伝的に均一な動物を使用したからと言っても,生まれてくる仔の体重や臓器重量にはばらつきがある。これは動物実験を行う者には常識で,遺伝的要因よりもその個体が生まれ育っていく際の環境要因のほうが,その後の成長にかなり影響すると言うことを意味している。環境ホルモン研究で対象となる“指標”は,そのような個体ごとの変異の多い部分の微かな変化ばかりだ。したがって,幾重にも追試をしていくことが要求される。我々の上記のデータは,過去のデータを一部否定し,一部再確認するものだった。しかも,影響の出た用量(50ng/kg)がかなり低かったこともあり,2001年のWHOとFAOの合同専門委員会でダイオキシン類の暫定耐容一ヵ月摂取量の算出根拠として採用された。上記の遺伝子発現解析が示唆に富むものだったためだろう。ただ,この専門委員会メンバーもこの現象がどのくらい“悪い”影響なのか疑問に思っているかもしれない。実際,このようにして生まれた仔が,AGDの短縮と前立腺重量の減少が原因で次世代が作れないことはないし,このようなダイオキシンの曝露が原因で「未来が奪われる」とはちょっと考えにくい。いずれにせよ,AGDの短縮と前立腺重量の減少は,ダイオキシンによる健康影響の中でも最も感受性の高い(最も低い用量で起きる)現象であるため,今後もその発生メカニズムを含めて検討していく必要があろう。

 その後,我々は,AGD短縮や前立腺重量減少が起きる感受性時期は,ラットの場合妊娠15日周辺で,妊娠後期の18日投与や出産後の新生仔への投与では起きないことを確認した。また,この現象が引き起こされる原因遺伝子がダイオキシン受容体であるアリールハイドロカーボン受容体(AhR)遺伝子依存性であることを遺伝子破壊マウスを用いて証明し報告している。

(おおさこ せいいちろう,環境健康研究領域)

執筆者プロフィール

1995年 東京大学大学院農学生命科学研究科博士課程修了。鹿児島大学農学部助手を経て現在国立環境研究所主任研究員。専門分野:生殖生物学。獣医学博士・獣医師。環境研職員にあるまじき「燃費の悪い愛車」が悩み。