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屈斜路湖が自然に中性化した原因を探るには

研究ノート

田中 敦

はじめに

 屈斜路湖は,北海道東部にある日本最大のカルデラ湖です。北海道を旅した方は,美幌峠で車を降り,屈斜路湖を見下ろす雄大な景色に息をのんだことがあるでしょう(写真)。しかし,同じ地域にある霧の摩周湖やマリモの阿寒湖の知名度にくらべると地味な印象があります。

写真 美幌峠から屈斜路湖を見下ろす

 国立環境研究所では,摩周湖の汚染レベルが低いことから,その湖水を用いた環境汚染のベースラインモニタリングを20年以上にわたって続けています。おとなりの屈斜路湖とのつきあいは,摩周湖湖底堆積物の年代測定をする際に,両湖沼で共通する火山灰層を利用したことにはじまります。摩周湖の補助的役割で研究がスタートしたのですが,調べてみると変わった水質変動を示していることがわかりました。

 少し前までの湖沼案内書を見ると屈斜路湖は酸性湖沼に分類されています。実際,1960年にはpH4を記録しており,かなり強い酸性湖でした。ところが,1980年代から次第に中性化しはじめ,現在のpHは7を越えており,もはや酸性湖沼とは言えません。

 屈斜路湖には湯川という温泉を源流とする酸性河川が流入しています。通常,温泉の下流部にある河川や湖沼に対しては,中和施設を設けて,下流部への環境影響を軽減する対策がなされるようになってきています。ところが,屈斜路湖の場合には,湯川の中和施設はなく,流入口のpHは現在も2~3の強酸性です。さらに,幕末の探検家の松浦武四郎の記録(久摺日誌)によれば,当時は大型の魚が生息しており,中性湖沼であったことがうかがえます。つまり,人為的な対策を施していないのに中性から酸性,さらに中性へとpHが変動しているのです。

中性化原因に迫るには

 それでは,現在の中性状態はこのまま安定するのでしょうか。中性化によって魚が戻ってきていますが,再び酸性化すれば,それも失われてしまいます。酸性の時期には問題にならなかった生活排水や牧畜排水の流入による窒素やリンの負荷に対しても注意や対策を怠ると,富栄養化を起こす可能性もあります。現在の状態を保つことを前提にした観光資源への投資にもリスクが伴うことになります。科学的な関心からも,地域経済にとっても,どうして中性化したのか,これから何が起きるかを調べる必要があると考えました。

 中性化原因と将来の変動の方向を探るために2つの方法を実行しています。1つは,現在の屈斜路湖に出入りする物質,特に酸・アルカリのバランスを見ること,第2は,屈斜路湖自体を酸アルカリの反応場と考え,反応結果の湖水あるいは河川水を長期高頻度に観測することです。これには過去の文献データも利用することになります。

酸とアルカリのバランス

 第1の方法については,千葉大学の濱田浩美助教授と共同で年4回程度,湖に流入,流出する河川のうち,主要な15あまりの河川流量と水質の観測をしています。降雨,降雪の寄与は小さく無視できるほどです。屈斜路湖の東側にはいくつか温泉が湧いており,これらの影響も算定する必要がありますが,温泉の流量は文献等からの推定値となります。湯川の源流にある川湯温泉は酸性泉ですが,その他の温泉は酸性ではありません。さらに,湖底にも温泉が湧いていると言われています。事実,屈斜路湖南部を震源とする1938年の屈斜路地震の際には,南岸で温泉が噴きだしており,この地震を酸性化の原因と唱える説もあります。

 酸の最大の負荷源である湯川からは,水素イオンに加えて,多くの溶存成分が流入しています。一部の溶存イオンは中性の湖水と混ざって加水分解し,不溶性の水酸化物を生成します。この反応は,溶存イオンが酸として働くことを意味します。まだ酸性だった1980年代では,鉄は年間400トンあまり流入し,大部分が湖水から堆積物に移行していると計算されました。現在では,アルミニウムと鉄はほとんど不溶化していると考えられます。

 水収支に関しては河川のない東岸からの流入や漏水の計算が難しく,流入量が過少に計算されます。酸収支に関しては,湯川中の酸とイオンの加水分解を補うだけのアルカリ量が見あたりません。出口に近いところに位置する最深部一帯の湖底で温度や溶存成分を測定してもその異常は小さく,たとえ,流出口に近い地域にアルカリ源があっても湖全体に影響を及ぼすという点に疑問が残ります。まだ酸収支が確定してはいませんが,川湯温泉の消長がpH変化の原因とする説は支持できそうです。

 なお,ここで言うアルカリは,水酸化物イオンではなく,通常のpH領域では炭酸ガスの解離した炭酸水素イオンを示しており,この量はアルカリ度として表現されます。

長期・高頻度観測データ

 調査の結果,湖水はよく鉛直方向に混合しており,湖中央部の湖水を採取しても,唯一の排出口である釧路川の水を採水しても成分濃度に大きな違いはありません。したがって,屈斜路湖全体を中和滴定の反応場とみなして,釧路川河川水を高頻度に観測すれば,変化の方向性を示せるはずです。屈斜路湖では,結氷・解氷時期の湖沼調査は危険ですが,河川水ならば真冬を含めて調査することができます。幸いなことに地元の自然研究団体(てしかが自然史研究会)が,毎月の調査に協力してくださっています。このおかげで,通年のデータが集まり始めています。

 一方,屈斜路湖の古い水質データは少なく,1929年から数回の調査報告があるにすぎません。1977年からは,北海道により夏場年6回の調査が行われ,「公共用水域の水質測定結果」として公表されています。図に塩化物イオン濃度の長期観測値と近年のアルカリ度の値をあげます。我々の観測はまだ2年あまりで,図の端の方をしめるだけですが,塩化物イオンの濃度が着実に減少していることがわかります。塩化物イオンなどの成分濃度は,酸と同時にもたらされるイオン総量の増減を示すと考えます。1988~1992年にかけてpHが約5.0から6.5に上昇しており,pH上昇時期と図中の塩化物イオン濃度の減少が対応するようです。イオン成分全体を示す電気伝導度でも,1987年から2002年にかけては年間5μS/cm相当の減少が認められます。一方,pHは,中和滴定を思い出していただければ,当量点付近で大きく変化します。緩衝能があるため,酸が加わっても直線的には応答しません。それに対して,アルカリ度は,酸が加わっただけ消費されますので,直接的な酸収支の方向性を示すと考えられます。アルカリ度は,2002から2003年にかけての増加は大きいが,2004年にかけては増加が小さいようでした。

図 屈斜路湖水の塩化物イオン濃度の長期観測値とアルカリ度の高頻度観測結果
-は「公共用水域の水質測定結果」(北海道)による

 このように,アルカリ度あるいは溶存成分により,変動の方向性を検出できますが,年変動を検出するには,誤差が1%程度の正確さでの分析を長期間続ける必要があります。

 (たなか あつし,化学環境研究領域)

執筆者プロフィール:

雪と氷に閉ざされる真冬の屈斜路湖では,スノーモビルを使って調査を行いました。失敗して氷水に浸かったり,猛吹雪に道を閉ざされたりして,やはり北海道の本当の姿は冬場だということを痛感しました。

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