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絶滅危惧種イトウを巡る国際共同研究

【海外調査研究日誌】

福島 路生

 日本には北海道にしか生息しないイトウというサケ科の淡水魚がいます。英名Sakhalin taimenが示すように,その世界的分布はサハリンを中心に極東ロシアと北海道に限られます。精悍な面構え,1メートルを優に越える体長もあってか,漢字では魚偏に「鬼」と書きます。以前から環境省によって絶滅危惧IB類というカテゴリーに指定されていたこの魚が,IUCN(国際自然保護連合)によって2006年6月,さらに絶滅の危険度が高いとされる絶滅危惧IA類に格上げされました。格上げという表現が相応しいかどうかは別として,北海道と極東ロシアにしか生息しない淡水魚に,世界がこれほどまでに注目しているということは,長年この魚を研究してきた自分には驚きでした。

 IUCNは1948年に設立された世界最大の自然保護機関です。現在181ヵ国から約10,000人の科学者,専門家が独自のネットワークを築き,絶滅の危機に瀕する野生生物の保護活動に取り組んでいます。IUCNは,いくつかの専門委員会に分かれていますが,その一番大きな委員会であるSpecies Survival Commission(種の保存委員会)に,サケ科魚類を担当するSalmonid Specialist Groupがあります。筆者はこの「格上げ」が決定された直後の昨年6月下旬,このグループの母体で米国オレゴン州ポートランドに拠点を置くWild Salmon Center(WSC)の招きを受け,極東ロシアから日本海に流れる河川,Koppi(コッピ)川(表紙の写真参照)へと,約2週間のイトウ調査に参加する機会を得ました。

コッピ川のイトウ

 調査団は,WSCから約10名,ロシア太平洋漁業科学研究所からイトウ研究者が1名,それに日本から私が加わりました。ハバロフスクからヘリコプターに乗って約2時間,見渡す限りの原生林を低空飛行で飛び越えた後,Koppi川の川原に着陸すると,ヘリは私たちと機材を置いて爆音とともに帰ってゆきました。この川は,北海道の稚内からだと直線距離にしてわずか360kmほどしか隔たっていません。そのためか樹木や草花,山並みからは,どことなく道北の自然を思い浮かべました。しかし,Koppiの流域にはアムールタイガーが少数ながら生息し,オオカミが群れをなします。少数民族のオロチ族が漁業と狩猟を営む他は,商業目的の林業はほとんど行われていません。そのため流域は多様な樹種で構成された針広混交林に覆われています。いわば100年,いや200年前の開拓期前の北海道にタイムスリップしたようなものです。

 イトウはサケの仲間ですが,すべての個体が海に下り(降海性),川に遡上する生活史を持つとは限りません。Koppi川など,極東ロシアのイトウが降海性を持つか否か,また他の地域のイトウ(例えば北海道のイトウ)と遺伝的な交流があるのかどうかを知ることが,今回の調査の主な目的でした。魚類調査は通常,魚を捕獲することからはじまります。私の役目はその最も重要な任務(?)であるイトウの捕獲であり,その方法は得意とするルアー釣りでした。毎日,ロシア人ガイドの操縦するボートで川を上下に移動しながら,ひたすら釣りをしました。これほど楽しい調査を経験したことは正直いってありません。釣り上げたイトウは体長・体重を計測し,年齢査定のためにウロコを採取,DNAを調べるために鰭の一部を切り取った後,また同じところへ放します。しかし,今回は3尾をやむなく犠牲にし,頭部にある「耳石」と呼ばれる1組の骨を取り出しました。耳石は硬骨魚類にとって文字通り耳の役目を果たしていますが,最近,耳石に含まれるストロンチウムなどの微量元素の濃度や安定同位体比を調べることで,その魚の回遊履歴が推定できることが分かってきました。いわば耳石は天然の記録装置なわけです。

 極東ロシアでの日米ロの魚類調査は今後も継続される予定です。謎に満ちたイトウの生態が次第に明らかにされてゆくのが楽しみです。それ以上に,ロシアというまだ閉ざされた国の極東にある美しく脆弱な自然の現状を,自分の目で確かめて来られることに国際共同研究の有難みを感じます。この地域は,中国などに輸出される木材が年々うなぎのぼりですし,石油・天然ガスの開発が急ピッチで進み,パイプラインがその自然を切り刻もうとしています。世界がイトウに目を向けたのも,危機に瀕した極東の自然が背景にあったからなのかもしれません。

(ふくしま みちお,
アジア自然共生研究グループ)

執筆者プロフィール:

今年からメコン川での仕事が中心になりつつあり,数百とも千とも言われる魚種の多さに圧倒される研究生活が待ち受けていそうです。最近,人の名前すら覚えるのが苦手な自分なので,はたしてどうなることでしょう。