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「公」の科学はどこへ行った

【随想】

 「公」の第一義として,ある国語辞典は「役所」を挙げるが,手元の漢和辞典では,「公共,対私,正しくて偏らない,共有」といった意味とする。

「公」への順風と逆風:

 12年間民間企業で働いたあと,人のためにいくらかでも尽くしたいと,青臭い志を抱いて国立公害研究所に入ったのは,ほぼ30年前のことである。最初の異文化ショックは,一冊の本を発注し手に届くまでに2ヵ月かかったことであった。ほしい本が目に付いたらすぐその場で買え,だけど必ず内容を5分間上司に報告せよ,と民間で教育された身にとって,忘れたころに手元に届いた本は,「お役所」仕事を実感するありがたい洗礼であった。東京の会合に出るのには13のハンコが要った。3年先の研究計画説明で,この出張費計上は,いつどこの誰に会いにどの交通手段で行くのかと問われたときは,命令されたらその場から出張するものと心得ていた私企業人には,頭が真っ白になる瞬間だった。

 その一方で,昼の研究を済ました研究者が夕暮れになると三々五々集い,いつ来るともわからぬ環境の時代を夢見て,人類の役に立つ「公共」の研究とは何か,大いに論じたのを覚えている。自由を縛る規則という役所の実態の中で,自由闊達であるべき研究をどう進めるか,30年間のひとつのバトルであったが,そのうちに世間に流されてしまっていた。

 理事として過ごしたこの6年間,独立行政法人化,非公務員化のおかげで,「役所」から「公共」への順風が吹き,このミクロレベルの葛藤は過去のものになりつつある。まだいささかの雰囲気が残るものの,やればできるし,やらない,できないの理由を規則におっかぶせることはもう許されない。

 しかしその一方で,当初の青臭い志,「公共」の科学に対しては,世間からの逆風が襟もとに吹き込んできているようである。

「私」の氾濫する今「公」の科学を:

 「私」の科学ではカバーしきれない知の共有に向けた多くの仕事がある。例としてあげるなら,社会の底流にある動きの解析,今のあるいは個々の採算に合わないが進めておくべき知見の収集,いつどんな結果が出るかわからぬが先をみた長期の観測,社会の安全確保のためのデータ取得,「私」をつなぐさまざまな基準・統計データの整備,それらを可能にするための最先端の個別研究,科学成果の社会への普及などである。

 20~30年間の地球観測集積のふたが開き,温暖化が予想以上に進んでいることを本年2月IPCCの報告が明らかにした。C.D.キーリング博士は,マウナロアにて世界で初めて大気中の二酸化炭素濃度の変化を継続的に測り続けたが,その功績は,まさに「公」の科学の重要性を示す例と言えるであろう。機器の開発・設置を行い,データ取得・整理に黙々と取り組むことに生涯を奉げる人たちの精神的,資金的苦労にはほんとうに頭が下がる思いである。

 大学や企業の研究者に「公」を問えばそれぞれに,知のフロンテイアを拡大し論文に書いて人類の夢を広げています,お客さんのニーズに応えた新製品の開発に日夜邁進,知的所有権を増やし人々を豊かにしていますという。研究者・経営者・顧客の「私」の範囲ではそれで済んでしまうかもしれない,しかし「私」の良いことの集合が必ずしも社会全体の良いことにならないことも多い。共有地の悲劇は至るところにある。

 持続可能性の科学技術論議の中で,これまで科学技術が本当に人類を幸せの方向に導くことを念頭に進められてきただろうか,という疑問が発せられてきている。環境の面で見ると,顕在化しなかった矛盾が20世紀にまず地域に現れ地球規模に広がり,今世紀には誰にも見える形で現れつつある。IT化社会が一人歩きしはじめ,ジャンクメイルとのいたちごっこ,必死のメイルのやり取りで時間が過ぎる。石油,自動車,土木資本ががんじがらめにした交通インフラが,渋滞承知で車を車列に突っ込ませる。「私」の科学で閉塞した社会の交通整理をするのは誰の役目なのか。「私」の世界が持てはやされる21世紀には,かえって,共有の知恵,「公」の科学が必要になる時代である。

しかし「公」のかおりはどこに?:

 一体今の日本の科学技術推進の体系に,「公」のかおり,雰囲気は存在するのだろうか。科学技術は17万人の大学の研究と圧倒的多数の企業研究に二分され,1万人の旧政府系研究機関がなすべき「公」の研究も,好奇心の発露という大学の「私」,短期の利益を求める企業の「私」の二重唱大合唱に飲み込まれようとしている。

 研究独立法人も天下り特殊法人改組の独立行政法人と一緒くたにされ,メデイアの公務員バッシングで「公」への気力がそがれ,優秀な若手研究者は「公」の研究から一歩引き始め「私」の世界へと職を求める。この10年で環境分野の研究需要が膨大になったのは世間の常識であるにもかかわらず,研究員人件費はメリハリなく一律に5年間で5%削減され,次々に持ち込まれる「公」の仕事に研究員は疲労のきわみである。科学立国の名のもとに大量教育されたポスドクのフェローが公募の狭き門に殺到するが,小さい政府を目指して人員削減された研究所には残念ながら受け入れる余地は少ない。「私」の論理に基づき上から降りてくる研究評価基準は,個人の好奇心を基本とする純粋科学の評価基準の横流しで,短期的生産性を重視した論文数,特許実用新案数ナンボで計る価値付けであり,地味で長期の社会貢献への評価はどこかにうずもれてしまっている。常に儲かる仕事を追うことを旨とする企業がバブルで広げるだけ広がった戦線を立て直すための「選択と集中」というキーワードが,継続性や人材再生産性を無視して科学の世界にも入り込んだ。「公」を支える安定的資金が,学でなく額で競う研究資金に換えられ,研究者が世間受けのよいキーワードを乱発した時代でもあった。継続性により得られる質と効率性を無視した,価格競争だけの契約方式がさらに研究者の時間を削り取る。流れに忠実に対応しようとする研究者は事務的作業に忙殺され,競争の世界を横目で見る研究者には無気力感がただよう時代であった。「研究は人」であるにもかかわらず,研究資金配分は見えにくいヒトから見えやすいモノへと移り,科学技術予算が土木工事に取って代わって公共事業化したようである。

 6年在任の後半は,吹き始めた公への逆風の中で,どう公の科学を進めるかに腐心する時期であった。

「公」の科学ここにあり:

 環境問題がおきてはじめて科学は自然を,競争し征服するものでなく共生する相手として認識し始めた。「公」である自然と,人間という「私」とのハザマを研究している環境研究者は,まさに公の科学のフロンテイアにいる。

 「公」の科学はどのようなものだろうか?「私」を捨て,偏りが無く,世の中に開かれ,長期の人の幸せを目標にしたものでなくてはならない。論文で示される科学的思考と手段を備えるのは「公」の科学では基礎の基礎であり,それだけの評価で満足してはならない。上乗せして,高い理想と情熱,鋭い洞察力,深い思いやりの広がりが要求される挑戦的な科学である。世間に流されない自主自立の気構えがいる。信念もいるが,思い込みの危険を承知し,社会の意見に謙虚でなくてはならない。個人の名利は二の次になろう。もちろん効率的でなければならない。貴族の趣味科学ではないし,評論家的にはすに構えてはすすまない。行動がいる。「私」の社会だけでは不可避に生じる隘路を先見的に見つけ,短期の利を無視してもしつっこくとり組まねばならない。今はやる知的所有権で独占権利を守るより,知の社会共有を優先させばならない。世間へ成果を届けることに躊躇することはない。成果は長期に世の中をどれだけ動かせるかで計られる。

 非公務員化に関する職員説明会で,この研究所は「役所」でなくなっても,「公」の精神を忘れない仕事を続けていこう,との声が多くあがったのを記憶している。研究所のよき伝統を垣間見た瞬間であったし,その後の組織運営に勇気を与えられる天の声だった。「公」の科学技術というものがあるのなら,それを担うに一番の場所に国立環境研究所がある。二分された「私」の科学をぬけて,より大きな試練を背負って,「公」の科学をすすめていただきたい。

(にしおか しゅうぞう,
前理事,現参与)

執筆者プロフィール

 受験の年にスプートニクが揚がって法科志望が突如科学に転向,ラグビー合宿で手続きをサボっている間に機械工学科に配属され,クランクがつっかえ動けないエンジンを設計してやっと卒業。そのあともふらふらしながらなんとか仕事を終えました。皆様に感謝。