ユーザー別ナビ |
  • 一般の方
  • 研究関係者の方
  • 環境問題に関心のある方

メコン川のダム−中核プロジェクト3 「流域生態系における環境影響評価手法の開発」 より− 開発と淡水魚類の回遊生態解明

【シリーズ重点研究プログラム: 「アジア自然共生研究プログラム」 から】

福島 路生

はじめに

 どんな開発でも同じことかもしれませんが、ダム開発では得られるものと失われるものが明瞭に分かれます。得られるものは電力、あるいは大陸であればそれを近隣の国に売ることで手に入る外貨などです。灌漑用水も確保されるため、農業にとっても利益はあります。計画されたダムの発電量や貯水量、あるいはそれがもたらす経済効果については、ある程度の試算がされるものです。しかし一方の、失うものの試算はなかなか行われません。公表されないだけのものもありますが、明らかに全く分からないものも少なくありません。ダムを造ることによって失われる淡水魚類の多様性や漁業資源などもそうです。河川を横断する構造物であるダムは、上流下流へと回遊する生活を送ってきた魚にとって明らかに脅威となるはずです。ダム建設によって失われる魚類の多様性、漁業資源、魚から得られる動物性タンパク質はどのように試算したらよいのでしょうか。

本研究の背景と目的

 インドシナ半島の6ヵ国を流れる国際河川メコン川。この川の淡水魚の、厳密には種は同じでも支流ごとに繁殖の場を隔てて分布する地域個体群の中で、ダム開発によって失われる可能性の高い個体群を事前に検出すること、そしてそれが本当に失われないようにダム開発を見直すための科学的根拠を提示すること、それが本研究プログラムの中での私のテーマです。そのためには、ダム建設予定地などダム開発の青写真の上に、主要な魚種ごと、個体群ごとに回遊経路を重ね合わせてやらねばなりません。

 メコンのような巨大な川で、淡水魚の回遊の状況を調べることは容易ではありません。野生動物の移動や行動を調べるのに、タグ(標識)や発信機、環境要因を記録するデータロガーを装着することがあります。タグやロガーなどはそれが装着された個体が回収できて初めてデータが手に入るものですが、通常、回収の効率は極めて低いです。発信機についても個体を常に追跡してデータを取得しますが、一度に追跡できる野生動物の数は少ないものです。いずれも調査に伴い膨大な労力を要する一方、得られる情報が限られます。そこで本研究では、魚一尾ごとに生まれながらに備わっているデータロガー、耳石に目を付けました。

 耳石(じせき)とは脊椎動物が頭部にもつ骨の一種で、文字通り聴覚やバランス感覚などをつかさどる組織です。硬骨魚類の場合、成長に伴って周囲の水(淡水魚なら河川水)からカルシウム(Ca)を取り込んで毎日1本ずつ輪紋を形成しながら大きくなります。その際に、Caと共に同じアルカリ土類金属に属するマグネシウム(Mg)、ストロンチウム(Sr)、バリウム(Ba)などの元素も河川水から耳石に吸収され、一度吸収されると生涯にわたって安定的に保持されることが分かっています。この耳石に取り込まれる元素成分を分析することで、これまで回遊魚の知られざる生態が数多く明らかにされてきました。中でも、サケやウナギなどの海水と淡水を行来する魚の回遊履歴が、海水と淡水とで100倍以上も濃度に開きがあるSrをマーカーとして盛んに研究されてきました。

 一方で、メコン川の淡水魚類の多くは回遊性を持ちますが、主には支流と本流、あるいは支流から別の支流といった“淡水の中だけ”を回遊するものと考えられています。そのため回遊経路の河川水のSrの濃度変化は恐らくごくわずかです。その他の元素(BaやMgなど)も同時にマーカーとして測定し、できるだけ多くの情報を手掛かりにしないと回遊の実態はつかめないでしょう。したがって支流ごとに河川水中の複数の元素濃度に差があること、そしてその違いが耳石に反映されること、この2つがメコン川の淡水魚の耳石による生態解明を可能にするための大前提になります。実はメコン川の本流、また複数の支流間で様々な元素濃度の平均値に違いがあり、コップ1杯の水からでも、どの支流(本流)から来た水であるかがほぼ間違いなく判別できることは確認しています( NIES Annual Report 2010 http://www.nies.go.jp/kanko/annual/index.html参照)。大前提の前半部分はすでにクリアしているわけです。

耳石分析による回遊生態解明

 では河川水の元素濃度が耳石に反映されるかどうかについて、メコン川に広く分布する回遊魚Siamese mud carp (Henicorhynchus siamensis)(図1)を対象とした解析結果を紹介します。H. siamensis は体長15cmほどのコイ科の小魚ですが、タイ、ラオス、カンボジアなどどこへ行っても目にする魚で、漁獲量はメコン川の淡水魚の中で随一、メコンの人々に最も親しまれている魚です。それは、この魚のクメール語名「トレイ・リエル」がカンボジア通貨のリエルの語源であることからも分かります。上記3国の市場という市場でかき集めた数千尾分の耳石を研究室に持ち帰り、その中からH. siamensis の耳石を選び出し、耳石核から外縁にかけて、つまり成長に伴う各種元素の濃度変化(プロファイル)を求めました(図2)。ここではSrに注目してみます。各々の地点(市場)で数尾ずつ採集しましたが、同じ地点の魚からは互いに似かよったSrのプロファイルが得られています。図2中のGam-2などの地点では2つのパターンが見られますが、両者では採集した季節が異なります。同一河川内の地点間でもプロファイルはある程度似ていますが、異なる河川間ではその形状が明らかに異なります。またU字型をしたプロファイルが多いことも特徴です。

図1 (A)Henicorhynchus siamensis、(B)その左右の耳石(バーの長さは2mm)、また(C)耳石切片(矢印に沿ってプロファイルを取得した)

図2 H. siamensis の耳石中88Srプロファイル。横軸は耳石核からの距離(mm)、縦軸は88Sr濃度(ppm)。背景図に河川水中Sr濃度分布を示す。

 これらのプロファイルをどう解釈するかをお話しする前に、このデータをいかに取得したかについて先に説明します。本研究では、耳石というきわめて小さな固体試料内部の微量元素濃度の空間分布を求める必要があるので、試料を酸などの液体に丸ごと溶かす分析手法は使えません。代わりにレーザーアブレーションICP質量分析法(LA-ICP-MS)を用いましたが、これは固体試料に局所的(10μm~)にレーザー光を照射し、微粒子化した物質を質量分析計に取り込み、そこで検出される複数元素ごとのカウント値からその濃度を半定量する手法です。濃度が既知の試料の主成分(耳石の場合Ca)や標準試料のカウント値で補正することで未知の固体試料の元素濃度を高感度で測定し、微小領域での空間分布を調べることができる画期的な分析手法です。

 再び図2の説明に入る前に、LA-ICP-MSにより測定した耳石表面の元素濃度と、魚を採集した市場に最寄りの地点での河川水中の元素濃度との関係について見てみましょう(図3)。今度はレーザーを耳石の切片ではなく“表面”に直接照射しました。耳石表面のSr濃度は河川水のSr濃度(厳密には耳石主成分であるCaで標準化するため比を求めた)に対して正の相関を示しました。つまりその魚が(漁師の網にかかる直前の)最後に曝露された環境中のSr濃度が、しっかり耳石の一番外側に反映されている証です。正の相関は他にもBa、亜鉛(Zn)、ナトリウム(Na)などにも見られましたが、意外なことにMg、Mnそして銅(Cu)は負の相関、特にMgは非常に有意な負の相関がありました。そのメカニズムはまったく分からないのですが、耳石と環境中のMgの負の相関は、北米のカットスロートトラウト(ニジマスの仲間)からも報告されています。

 上記の大前提の後半部分(河川水の元素濃度が耳石に反映される)もなんとか成立しそうです。負の相関であってもマーカーとしては十分に機能します。そこで耳石表面の元素情報だけからどこで採集されたかがはたして判別できるものかどうか、測定したすべての元素を使って判別関数分析を行いました(図4)。この図から、いくつかの採集地点は空間的にオーバーラップするものの、明らかに耳石表面の元素成分が異なるが故に、その他の地点から分離されるものがありました(Gam-2、Gam-5、Chia-Kなど)。タイのコラート高原を流下するいくつかの支流の採集地点(Mun、Chi、Songkなど)は、同じ地質の影響が河川の水質に反映され、さらにはそれが耳石表面にも反映されるためか、現状では採集地の判別が困難です。しかし、新たなマーカーが見つかれば判別能力はさらに向上するはずです。

図3 耳石表面の88Sr濃度(上)、また24Mg濃度(下)と採集地点の河川水中のそれぞれの濃度(44Ca濃度に対する比)との関係。河川(支流)および調査時期ごとにグループ分けし、その平均値、標準偏差、サンプル数を示した。縦軸は対数表示。
図4 耳石表面で測定した全元素(23Na, 24Mg, 55Mn, 63Cu,66Zn, 88Sr, 138Ba)による採集地点の判別関数分析。(A)第1vs第2判別関数、(B)第1vs第3判別関数、(C)第3vs第2判別関数。

おわりに

 どこで採集したかは分かって当然ですが、どこを回遊してきたかが問題です。耳石中の元素濃度プロファイル(図2)は、その魚が生きていた間に回遊して巡った支流や本流などを映し出す履歴書のようなものです。元素プロファイルから逆にどこをどう回遊してきたかを推理することは、プロファイルのいくつかのステージで判別関数分析を行い、図4の中で一尾一尾がどのような軌跡を辿っていくかを見ればよいのではないかと考えています。同一地点で獲れた魚のプロファイルが互いに似ることは、これらの魚が恐らく群れをなして同じ経路を辿ってきた末に、(ひょっとしたら同じ網にかかって)漁獲されたことを示唆します。また一方で、元素濃度の測定値の変化が、測定誤差ではない生態学的に意味のある何かを、十分な精度で捉えていることも示します。プロファイルがU字型で左右対称なのは、それぞれ生まれた支流、生まれた地点に(産卵のため)戻ってきている、つまり母川回帰していることを暗示します。

 メコン川を代表する淡水魚H. siamensis の耳石に隠された秘密を解き明かすのはもうすぐ先のことです。

(ふくしま みちお、アジア自然共生研究グループ 
流域生態系研究室主任研究員)

執筆者プロフィール

福島 路生

 生まれも育ちも東京世田谷。幼いころより憧れの北海道、さらに北米大陸へと回遊を行うが産卵、いや就職のため日本に回帰し早くも10数年。現在はさらに南下を続け、メコン流域などに出没する。サッカーボールを蹴ると熱くなる習性あり。