ユーザー別ナビ |
  • 一般の方
  • 研究関係者の方
  • 環境問題に関心のある方
2011年8月31日

新しい環境動態トレーサーの開発と計測

【シリーズ先導研究プログラムの紹介: 「先端環境計測研究プログラム」 から】

横内 陽子

 環境計測研究センターの先導プロジェクトの一つとして、「新しい環境動態トレーサーの開発と計測」を今年度から5年計画でスタートしています。「トレーサー」とは、流体の移動や物質の変化を追跡(トレース)するために、目印として利用されるものを指し、例えば、約5730年の半減期を持つ放射性炭素(14C)は年代トレーサーとして広く活用されています。環境中の物質の動きや変化は、直接計測が困難であることが多いので、適切なトレーサー物質を見つけ、その計測手法を確立することは、動態解明のための有効なアプローチとなります。そこで、本プロジェクトでは、我々がこれまで培ってきた先端計測手法を活かした新しいトレーサー開発とその応用を目指しています。以下にその概要を紹介します。

サブテーマ1 「気候変動影響を検出するためのトレーサーの開発と計測」

 (1)海水循環を明らかにするための新しいトレーサーの活用: 海水とともに流動し、その流動過程や物質輸送過程を追跡することが可能な化学成分は化学トレーサーとして利用できます。海水中の化学トレーサーとして最も有名なものは、14Cです。14Cは主に大気-海洋間の二酸化炭素ガス交換によって海洋にもたらされ、取り込まれた後は海水とともに流動して、自身は放射性壊変によって絶対量を減らしていくので、目的とする海水の“時計”の役割を持ちます。しかしながら、14Cは核実験由来14Cの混入により、過去50年程度に取り込まれた海水の時計の役割は担えず、特に表層海水の正確な年代算出ができなくなっています。これを補うため、1990年代には、年々増加するフロン類(CFCs)の大気中濃度比(例えば、CFC-11/CFC-12比)が利用されましたが、1980年代以降、これらの大気中濃度比がほぼ一定になったため、過去30年程度に海洋に潜り込んだ海水を追跡することが不可能となりました。そこで本研究では、従来のCFC-11とCFC-12に加えて、現在もなお大気中への排出が続いている六フッ化硫黄(SF6)やより低濃度のCFC-113を同時に高精度に定量する方法の開発を最初の目標としています。この方法が確立されれば、近年の温暖化によって深層循環の停滞が危惧されている日本海のように、海水循環の時間スケールが100年程度の海域における海水循環や物質循環が正確に表現できるだけでなく、従来難しかった太平洋の中層循環、あるいは昨今の原発事故による放射能汚染水の拡散の追跡など、様々な海洋環境研究において有益なツールとなるものと期待しています。

(2)自然生態系変動を検出するためのVOCトレーサーの開発: 森林や海洋などの自然生態系と大気の間にはさまざまな揮発性有機化合物(VOC)のやり取り(放出あるいは吸収)があります。そのような自然起源VOCの大気中濃度変動には、発生源あるいは吸収源である自然生態系の変動が反映されているはずです。我々は亜熱帯にある波照間島と亜寒帯にある落石岬のモニタリングステーションにおいて、大気中塩化メチル(CH3Cl)、硫化カルボニル(COS)、ヨウ化メチル(CH3I)、イソプレン(C5H8)など自然起源VOCの変動をほぼリアルタイムで計測しています。ここで得られるVOCの時系列データから自然生態系に関係するシグナルのみを抽出して、自然生態系変動のトレーサーにできないかと考えています。つまり、不均一性の高い自然生態系の広域な変化を大気観測によって検出しようという試みです。そのためには、VOC類の発生から消失までのプロセスを正しく理解する必要があり、本プロジェクトでは、まずCOSに着目して研究を進めています。この化合物は、主に海洋から放出される硫黄化合物で、陸上植生の光合成や土壌中などに生息する微生物の活動によって大気から除去されています。そこで、国内の森林サイトにおいてCOSのフラックス観測を展開し、植生や土壌によるCOS吸収過程を解明すると共に、吸収量と周辺環境との関係を明らかにする計画です。さらに、多くの植物から放出されるイソプレン等と組み合わせて陸域生態系の活動度のトレーサーとして実用化したいと考えています。

サブテーマ2 「同位体をトレーサーとした環境中化学物質の動態解析手法の開発」

 環境中の有害物質の中には、複数の人為発生源や自然発生源を持ち、それぞれからの放出実態が分からないものがあります。発生源によって、含まれる元素の同位体存在比率(同位体比)に違いがあれば、同位体比を調べることで発生源を推定することが可能となります。国立環境研究所ではこれまでに鉛などの元素について高精度な同位体分析システムの構築を進めてきました。本プロジェクトでは、こうした同位体計測技術を一層発展させ、様々な元素の同位体測定へ拡張するとともに、同位体分析を利用した化学物質の環境動態解析に取り組んでいます。特に、揮発性が高く有毒であるにもかかわらず環境動態が分かっていない水銀と、様々な物質の発生源や環境動態を解明するトレーサーとして重要な14Cについて、計測技術の高度化に力を入れています。本稿では、前者について紹介します。

 水銀には、7つの安定同位体(質量数196、198、199、200、201、202、204)が存在しますが、同位体比の変動が小さいため、これまで同位体分析を利用した水銀の環境動態解析はほとんど試みられていません。水銀産地毎の同位体比のわずかな違いや環境中での同位体分別を基に、水銀の環境動態や発生源の解明を行うためには、分析試料の前処理法も含めた水銀同位体比の精密計測技術の確立が必要です。そこで、多重検出器型誘導結合プラズマ質量分析装置(MC-ICP/MS)に水銀を連続的に気化させる試料導入装置と同位体標準試料導入装置の2つの異なる試料導入系を組み合わせた同位体計測システムを開発しています。MC-ICP/MSは、高温のアルゴンプラズマにより金属元素をイオン化し、複数の検出器を用いて各同位体の同時測定が可能な優れた同位体分析装置です。さらに、クリーンルームの整備や使用する高圧ガスの配管に水銀トラップを設置するなど徹底した汚染管理によって、高精度な水銀同位体分析を可能にしています。水銀は水俣病の原因となった金属で、現在は使用や排出に厳しい制限が課されています。一方、かつて国内には水銀を含む鉱物である辰砂(硫化水銀)を採掘する鉱山が100箇所以上も存在し、古代から赤色顔料など様々な用途に使用されてきました。そこでまず最初に、同位体比の地域による変動を調べるため、国内、国外で産出した辰砂の水銀同位体分析を開始しました(図参照)。今後さらに、主要な水銀発生源毎の同位体比の特徴を明らかにして、水銀の環境動態(移動、生物濃縮など)の解明を進めるとともに、無機水銀より毒性が強く環境動態も異なる有機水銀(メチル水銀など)に対する化学形態別同位体比分析手法の開発を計画しています。

図
図 辰砂の水銀同位体比変動
国産および外国産辰砂試料の質量数202と198の水銀同位体比を、国際標準物質(NIST3133)の水銀同位体比と比較して、その差をデルタ(δ)値で表す。‰ : 千分率

 なお、サブテーマ1は動態化学研究室が、サブテーマ2は同位体・無機計測研究室が中心となって研究を進めています。

(よこうち ようこ、環境計測研究センター
動態化学研究室長)

執筆者プロフィール:

横内 陽子

先日、遠足に向かう小学生であふれた電車に乗り合わせました。車内に響く子供たちのにぎやかな声を聞き、生き生きした目を見て、日本の未来は明るいと思わず元気になりました。