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中部大学教授・(社)日本ネパール協会会長 川喜田 二郎

 公害という言葉を拡大して、人間がみずから作りだした人間に有害な状況だとしよう。すると、現代の文明社会には三大公害がある。環境公害・精神公害・組織公害の三つである。それらが折り重なって、現代文明をデッドロックに乗りあげさせてゆくだろう。1969年に大学紛争を機会に「移動大学」という一見珍妙な事業にのりだしたとき、私はそう宣言した。今ふり返ってみても、やはりそうだと思う。

 日本の企業は、1960年代に盛んに組織公害をめぐって百家争鳴であった。そういう反省も持たなかったアメリカは、今組織公害に苦しんでいる。それが円高ドル安を招き、しかもなお日本のバイタリティに押されている主因ではないか。他方環境公害の方は、1970年代を中心に深刻な反省を迎え、今また第二の反省期を迎えようとしている。だが精神公害については、まだ深刻な反省期の第一波すら迎えていない。誰か欧米の偉いさんがいいだすのを待つのでなく、日本こそこの公害への警告を、まっ先に打ちだしてもらいたいものである。ともあれこれらの三公害は互いに深く絡んでいるので、その背景もわきまえず環境公害を孤立して扱うのはどうかと思う。

 環境問題について大来佐武郎さんと話していたら、誰だか欧米人の言葉 "Think globally, act locally." という形容を引いて、同感の意を表された。私も同感で、さる新聞にこの言葉を孫引きしたら、何人かの人から共感の意を表された。今年はグローバルな環境問題が騒がれるだろうが、さて実践となればアクト・ローカリーが重要だという反省に戻ってくるだろう。

 そこで私の一提案だが、世界中に幾つか、環境問題をめぐるモデル地域を設けるべきではないか。海を中心にする生態系についてはフィリピンとかカリブ海を選ぶ。山地が中心の生態系については、今深刻な環境問題に悩まされつつあるネパールヒマラヤがよいと考えた。そのモデル地域に対して、国境を超え、官・民の区別を超え、現代文明の総身の知恵で、環境問題をめぐる学習・交流・挑戦を行うのである。実態の解明は勿論のこと、その改善をめぐり、失敗・成功を含めての学習の場とするのである。既にその機は熟している。

 この問題をめぐり考えていることを幾つかあげてみよう。

 大がかりな構想だが、上からではなく下から固めることが鍵である。地域的には、行政的な県・郡や行政の末端である市・町・村よりも、まず自然村的なコミュニティを活性化することだ。コミュニティこそ、環境問題の最も基礎的な防波堤である。ネパールでは、開発の旗手もまたコミュニティでなければならない。現実において、日本ですら行政市町村役場とコミュニティとの間には、大きな断層があることを想うべきである。

 活性化の柱は、住民でなければならない。行政や専門家は、その下請けをするべきなのだ。それが空文にならないために、まず最も手がけるべきは、これら関係者に創造性開発とそれに結びつく参画の方法につき、教育・研修を徹底することである。これが、野外科学的方法を力説し、フィールドワークとKJ法の研修を続けてきた私が痛感するところである。企業対象のほか、日本の村づくりに注目し、ヒマラヤ山中への技術協力でその考えを実施してきての、私の実感である。

 住民参画でこそ、環境のモニターも効果があがり、環境の維持もやりやすくなる。教育と結びつければ環境教育も足が地につく。役人や専門家が下請けでなく住民の上に君臨している姿勢では、このようなこともできないし、NGO(nongovernmental organization : 非政府組織)の力を活用することもできない。住民を中心に行政・専門家・NGOなどが取り巻く参画方式の方が、第一、ケタ違いに安あがりであり、実行可能となる。住民では調査能力や企画力がないなどと思うのは、教育研修を考慮に入れてない思いあがった考えである。第一、そういう教育研修は、役人や専門家にも欠けている。

 大体環境の異常は、よほど前から兆候の現れていることが多い。それを捉えられないために水俣病や四日市喘息も被害が大きくなったのではないか。ところがその兆候の意味がなかなか捉えられないのは、分析と検証ばかりに専念してきた、書斎科学・実験科学万能の科学技術思想によるところが多い。これからは、更に加えて野外科学的方法の自覚的行使が必要なのである。これがないと、判断や企画でも、総合ということが言葉倒れになってしまう。

 ある地域とか問題を診断するには、まず住民の声をフィールドワークし、KJ法でまとめれば、手がかりが得られる。住民の声自体は、イモズルではあってもイモはない。しかしわれわれは、イモズルを活用して、イモすなわち現場の実態まで踏みこめるのである。

 現地に住みついている住民は、現地の情報には詳しい。だから行政も専門家も、まず住民を先生と心得、生徒の礼をとるべきだ。しかし住民は、情報処理をめぐり、ふたつの弱点がある。それは広域の情報にうといことと、同じ部落に住んでいても隣の太郎兵衛が何を考えているのか存外に知らないことである。このふたつの弱点を外からの人間が補強してくれるなら、住民は大歓迎なのだ。ここに住民・行政・専門家がスクラムを組めるひとつの手がかりがあるわけである。

(かわきた じろう)