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1997年3月31日

湿原の環境変化に伴う生物群集の変遷と生態系の安定化維持機構に関する研究
平成3〜7年度

国立環境研究所特別研究報告 SR-22-'97

はじめに

表紙
SR-22-'97 [3.9MB]

 地球の生態系の中でも湿原・湿地生態系は多様な環境を内包し、多様な生物の生息の場となっている生態系の一つである。湿地(wetland)のなかでもミズゴケの堆積した泥炭地(peatland)は日本の国土面積の0.5%以下で、北欧・カナダの10%以上に比べ、希少な生態系であり人為に弱い生態系であるので保全の対象にされている。さらに、生物の生息場所としての湿地の重要性や生物多様性の保護は国際的な関心事になっている。このような背景から、特別研究「湿原の環境変化に伴う生物群集の変遷と生態系の安定化維持機構に関する研究」が平成3年度から平成7年度に実施された。ここでは、湿原生態系における生態系多様性・種多様性がどうなっているか、生物群集が人間活動によってどのように変遷してきたかについて、フィールド調査の研究成果を中心に紹介する。

研究の概要

 本研究で得られた成果を要約すると以下のとおりである。

調査した湿原生態系の概要

 現地での調査の当初にはセスナ機による航空写真撮影を行い、現況の把握と過去との比較を行った。また、地形測量と気象自動観測を行い、リモートセンシング法を使った調査も実施された。これまでの調査報告に無い切り口から湿原生態系を明らかにするためや多くの湿原の比較・一般化のために方法の確立が初期の研究の中心となった。主に、ラムサール条約指定地・国立公園である「釧路湿原」、特別保護地域・国立公園の「尾瀬ヶ原」、国の天然記念物「赤井谷地」、福島県の自然保全地域である「宮床湿原」を研究の調査地とした。
 釧路湿原では赤沼周辺の水位観測と植生区分を行った。尾瀬ヶ原の調査は1994年から3年間の第3回総合学術調査の一つのグループとして参加した。赤井谷地の調査は会津若松市の調査指導会議に基づいて1992年から4年間の基礎調査の一環として行われた。宮床湿原は当研究所の特別研究として南郷村との協議の上実施された。宮床湿原を集水域の明らかな人為影響の少ないフィールドとして初期に調査した。遅れて、人為影響の予測される湿原として赤井谷地を調査し、形成タイプや大きさの異なる湿原として釧路湿原や尾瀬ヶ原を調査した。ヨシ中心の釧路湿原と小さな深泥池は面積の割に種数が少なくミズゴケの種の多様性が低いことが解った(図1)。

湿原の生態系多様性(宮床湿原)

 1991年から福島県南郷村にある県の自然保全地域である宮床湿原(図2)の地形測量、気象の自動観測、地下水位、水質の調査を実施し、微地形、湿原内の気象特性、水路・土壌水の水質を明らかした。表層水は地下水との混合が少なく、湿原の西部は集水域としての森林から影響を受ける流水函養型であった。季節毎に撮影した航空写真から融雪水が湿原を潤し池溏がつながる事がはっきりした。その性質は、詳細な植生調査と表層地下水の流動性の観測からも支持する結果が得られた。周囲の夏緑広葉樹林は湿原を潤し、湿原中央を小さな水路が通り(B)、東側半分にはヨシが生育し西側半分にはほとんどない。湿原周囲にはハイイヌツゲの低木の優占する低木帯(移行帯)が存在する。湿原中央部の標高がほぼ同じで植生を異にするように湿原を東西方向(短軸)に横切る調査ライン上、50,100cm深のピエゾメーター(先端のみ開いている水位観測井戸)を設置した。設置直後の水位上昇が東側の地点では速やかであったが西側では遅かった。ピエゾメータ水位の上昇の仕方に4つのパターンが見られた(図3)。水路に近い地点ではほぼ一定の高水位を示し、透水係数が大きい。緩慢な水位上昇を示したのは湿原中央から西側に多く、透水性が小さい事を表していた。中央の水路近傍の地点と東側ブッシュ内で上向きの流れが観測されたが、それ以外は垂直下向きであった。土壌水分は水路を除く中央部で少なく、西側の低木帯付近や東側150m付近で少なかった(野原他,1995)。ろ紙を泥炭土壌に埋設し、セルロース分解活性と微生物組成を調べた。湿原内の微地形によって活性と組成は様々であった。イボミズゴケ、チャミズゴケの厚いマットによる微高地、ハリミズゴケの優占する窪地、ミズゴケの少ない水路等に類型された。分解度は微高地>窪地>水路等の順で大きく、微高地には糸状菌類が多く、水路等には細菌類が優占した(図4)。湿原泥炭地における微生物及び分解性は空間、時間的に不均一で変動が大きかった(広木・渡辺,1995)。

湿原の種多様性(宮床湿原)

 連続写真撮影装置を制作し、湿原池溏における水生植物の展葉・開花などの生物季節や水位変化・積雪の変化を連続記録した。ミツガシワが5月下旬から展葉・開花して花期が約20日であるのに対して、同じ池溏に生育するヒツジグサは遅れて展葉し花期も約50日と長く、限られた空間を2種は時間的にすみわけていることが明らかになった(野原,1995)。
 訪花昆虫相はこれまでに報告されている林地や湿原より種数が少なく、訪花頻度も小さかった。この事は、この湿原が孤立した小規模な湿原であるためと考えられた。多くの昆虫(特にマルハナバチ)は周囲の森林に生育の場をもっており、湿原の植物の結実にとって昆虫と周囲の森林の存在は重要であった(上野,1995)。
 2つの池溏(D2,B4)から底生藻類は67種と93種が出現し、2つの池溏ともケイ藻が優占したが、流水の少ない池溏(B4)では鼓藻類が多く、生育環境・水理環境によって種の多様性が異なっていた(図5)。現存量、種類数、多様度指数の双方でどの季節も流水の多いD2の方が高い値を示しており、複雑な群集であった。D2は安定した地下水に函養された環境変動の少ない水域であった(渡辺他,1995)。
 底生動物は37分類群が出現し、湧き水部ではトンボ類がいないのに対しユスリカ類は全域に分布していた。宮床湿原の底生動物の出現種数は、これまでに報告されている他の湿原池溏の底生動物相の調査結果に比べて多かった(上野・岩熊,1995)。
 ユスリカは32種が同定され、特徴としてモンユスリカ亜科の比率が高く、カナダの高層湿原に見られる特徴を有していた。ユスリカ幼虫の年生産量は富栄養湖の値に匹敵して池溏への有機物の供給が起きていることが示された(図6)。S. akizukii は優占するユスリカの中でも小型の藻類や水生植物遺体を、P. culiciformis は若齢幼虫や大型ケイ藻や鼓藻類を補食しているという食物連鎖が明らかになった(岩熊,1995)。

添付図1
添付図2

湿原生態系の変遷と人間活動(赤井谷地)

 昭和3年3月に泥炭地特有の特殊な北方系の植物相をもつということで国の天然記念物に指定された赤井谷地には、その存続と周辺の農業開発との間には長い相克の経緯がある(樫村,1996)。会津若松市議会に対しての「天然記念物赤井谷地湿原の復元及び保存について」の陳情に基づいて、調査指導会議が組織され、平成4年から4年間の基礎調査、平成8年から2年間の保護管理施策の策定、平成10年から保護事業の計画が作られた。当研究プロジェクトもその一翼を担い、測量調査、リモートセンシングによる植生区分、地下水調査、気象観測、水質調査、侵入種の調査及び微生物群集の調査を実施した(会津若松市教育委員会,1996)。
 赤井谷地は最高点が湿原北西に偏り、北西から南東に向かう傾斜地形を示していた。湿原からの水の流出経路は1)湿原北から貯水池へ、2)湿原西端から新四郎堀へ、3)東端から表層流として赤井川への3つの経路が確認された(図7)。湿原内西よりのH14からJ14にかけて緩やかな頂部があり湿原東端(S14)に向かって1.5m、湿原西端に向かって0.5m下がっていた(図8)。西端が東端より1m高く、西の水田は湿原西端に比べ0.4〜0.6m低く地盤の不等沈下が推測された。(岩熊他,1996)
 航空機搭載スペクトルイメージャー(casi)を用いて可視・近赤外の10バンドで分解能2mで1994年6月に観測した。casi画像と植生調査から8つの植生クラスに分類され、土壌の乾燥状態や微地形との対応関係が得られた(図9)。湿原南西部境界付近と隣接では水分量の顕著な低下が認められた(山形,1996)。
 表層より5cmの泥炭を採取し、分析を行った(図10)。細菌数は6月と9月の調査の間で差は大きく、しかも場所による変化が大きかった。全体的な傾向としては、湿原の内側でミズゴケが厚い地点(湿原西端から20,30,50,90m)では細菌数は少ない傾向にあった。一方、糸状菌数では、2回の測定の間で明確な差が見られ、6月の調査に比較して9月には生菌数は非常に減少し、特に、湿原内部のミズゴケのハンモックではわずかしか認められなかった(広木他,1995)。
 境界から20mの地点で草高が平均約80cmあり、50m付近で50cm、90m付近のチマキザサがあまり見られなくなる地点では30cmの草高になっていた(図11)。光合成速度が6月には周辺部で高く、90mでは湿原内部になるにつれて低くなった。その傾向は9月になると弱まりどこでも同程度になった。一方、蒸散速度は6月には光合成速度の傾向と似ており、湿原内部に向かう程低下した(野原・広木,1996)。
 ピット地下水位は周辺の土地利用と水路の有無で影響されることが明らかになった。水位低下によって生じた土壌環境の変化が栄養状態を変え、チマキザサの湿原周辺での生育を盛んにしたと考えられた(図12)。チマキザサやアカマツの記録が1961年の報告に無い事からここ30数年の間に急激に侵入したと考えられた。周縁の切り崩しによって地下水位の低下する範囲や勾配に沿って地下水が流れ込む影響の範囲は湿原に向かって約30mであった。チマキザサの侵入範囲は200m内部まで及び現在の物理環境が及ぶ範囲以上に生物の影響が年数を経て現れている事が解った(岩熊・野原,未発表)。

添付図3

まとめと今後の課題

 生物の生息場所の面積が大きければそこに生息する生物の種は多くなることは、「島の生物地理学の原理」として知られている。陸の中の「島」である湿原のミズゴケの種数を湿原面積に対してプロットしてみるとこの関係が成立するが、期待される値よりも種数が少ない湿原がある。周辺を市街地で囲まれた京都の深泥池では、ミズゴケの一種が絶滅したといわれ二種が現存している。また周囲が農地で囲まれた赤井谷地も面積に比べてミズゴケの種数が少なく、周囲を二次林に囲まれた小さな宮床湿原と同じ七種類にとどまっている。このように人間活動の影響が大きく作用する湿原では、ミズゴケの種数が減少している。釧路湿原はヨシの生育するフェン部の面積が大きいため、総湿原面積(18200ha)に対してミズゴケ種数が少ないものと思われる(図1)。
 開発により湿原を小さく分断せずに面積を大きく保つことや周縁効果を和らげるための緩衝帯の設置等が、今後の湿原保全には重要であろう。湿原に限らず、生態系保全のためには、的確な現状把握と科学的な知見の蓄積が欠かせない。

〔担当者連絡先〕
国立環境研究所
生物圏環境部
生態機構研究室
野原精一
(電話 0298−50−2501)

用語解説

  • 流水函養型
    湿原はそこに供給される水及び栄養分の主な起源から雨水函養型と流水函養型(河川・表層水)に大別される。ミズゴケ湿原(高層湿原)は雨水函養型、低層湿原は流水函養型である。
  • 移行帯
    一つの生物群集とこれに隣接する他の生物群集とが地域的に画然と区別されない場合に,その移行部をいう。特に植物群系の境界部において著しい。移行帯・推移帯では隣接する両群落の要素を合わせ持っており,生物の種類が豊富で特有な変異型に富むことや高い個体群密度を示すことがある。環境条件の急激な変化がある時,推移帯の幅は狭くなる。
  • ピエゾメーター
    泥炭地や土壌に開けた穴に差し込んだ両端のみ開いているパイプをいう。地中に開いた部分の水圧に応じて地下水があがってくるが、その水位をピエゾメーター水位という。
  • 透水係数
    地下水の流れ安さの目安で、係数が小さいほど地下水の流動が少ない。
  • 池溏
    泥炭地にある比較的浅い自然の池のこと。地塘はその池の堤を指す。
  • ハンモック
    湿原内に生じる微高地のことで、ブルテ(ドイツ語)とも呼ばれる。<->ホロー
  • ピット地下水位
    泥炭地や土壌に開けた穴のなかの地下水位のことを指し、ピエゾメータ水位と区別して用いる。
  • フェン
    栄養の供給源やpHから、フェンとボッグに大別した湿原の類型の一つ。日本でいう低層湿原に近い。
  • 周縁効果
    あるまとまった群落や植生などの周辺部には内部の植生や動物群集・環境などと異なった状況が生じるが、その周辺の影響をいう。

関連研究者

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