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博多湾の円石藻ブルーム

【研究ノート】

河地 正伸

1.白亜の崖

 15年程前,まだ大学院の学生だった頃にイギリスのプリマスで開催された国際会議に参加しました。初めての国際会議での発表に不安と期待の入り交じった記憶とともに,会議の後で訪れた場所が思い出されます。ドーバー海峡に面したイーストボーンという小さな町で,白亜の崖が数キロに渡り続く美しい海岸線で有名な場所です(表紙の写真参照)。この白い崖はチョーク(炭酸カルシウム)でできていて,実はその大部分は,太古の昔に海底に堆積した円石藻という海洋植物プランクトンの化石なのです(図1)。円石藻はハプト植物門に所属する単細胞性の生物です。細胞の周りは炭酸カルシウムでできた丸い円石と呼ばれる鎧のような構造で覆われています(図2)。イーストボーンは,現世の円石藻を研究していた私が何としても訪れたかった場所でした。白亜紀の地球は温暖で,大気中のCO2は0.5%に達し,地上には様々な動植物が繁栄していました。イーストボーンのあたりは,ゴンドワナ大陸などの古代大陸に取り囲まれた広大な浅瀬の海(テチス海)だったそうです。温暖で光とCO2が豊富な環境で,莫大なバイオマスが生産されたことをこの白亜の崖は物語っています。中東に豊富な原油は,この時代に数千万年にわたってテチス海に蓄積したバイオマスが基になったとも言われています。原油が使われ始めて100年が経過した現在,人類は原油の枯渇を心配し始めています。何というタイムスケールの違いでしょうか。

図1 白亜の崖から持ち帰ったチョークの走査型電子顕微鏡像
図2 博多湾でブルームを形成した円石藻Gephyrocapsa oceanicaの 走査型電子顕微鏡像(スケールは4μm)

2.世界と日本の円石藻ブルーム

テチス海で繁茂した植物プランクトンほどではありませんが,現代でも,円石藻が大量に繁殖することがあります。自然界でプランクトンが大量に繁殖して水の色が変わる現象のことをブルームと呼んでいます。赤潮やアオコもブルームの一種です。円石藻のブルームは光反射率が高く,衛星写真で白く見えることから,赤潮ならぬ白潮とも呼ばれています。

北大西洋やベーリング海の大陸棚ではEmiliania huxleyi という種類が大規模なブルームを形成して問題になっています。円石藻ブルームは,広範囲の海洋環境(200,000km2以上に達することがあります)で,長期にわたり続きます。ブルーム時に形成される円石の量は莫大なもので,地球規模の炭素循環に影響を与えるとも言われています。また円石藻はβ-ジメチルスルフォニオプロピネート(DMSP)という硫黄化合物を生産します。DMSPは海水中で揮発性のジメチルスルフィド(DMS)に変わり,大気中に放出されて,光酸化反応でSOx等の酸化硫黄化合物に変化します。これらの化合物は雲の核となって酸性雨を引き起こし,また太陽光反射の原因物質になると言われています。円石藻は地球のイオウ循環でも無視できない規模で貢献している可能性が考えられています。

日本沿岸域ではGephyrocapsa oceanica (図2)という別の種類の円石藻によるブルームが認知され始めました。衛星写真(図3)は,2007年4月に博多湾で発生した円石藻ブルームの様子です。これまでに,1992年に鹿児島湾,1995年に東京湾と相模湾,そして最近では博多湾でG. oceanica のブルームが確認されています。

図3 2007年4月の博多湾の衛星写真
 白く見える部分が円石藻ブルーム
提供 : 宇宙航空研究開発機構(JAXA)

3.博多湾の円石藻ブルーム

 博多湾の円石藻ブルームは,2004年,2007年,2008年に起きました。2007年は最も規模が大きく,3月末~5月初旬まで続き,博多湾外の玄界灘や響灘にまで拡大しました。このブルームピーク時に博多湾内で1日に作り出された炭酸カルシウムの総量は2,600トン(CO2換算で1,100トン)と試算されています(福岡市保環研報, 33, 85-90, 2008)。海洋生物が石灰化を行う場合,次の反応式に示すように,CO2が生成します。

      Ca2+ + 2HCO3- → CaCO3+ H2O + CO2

 石灰化の過程で生成したCO2は海水中に溶解したり,植物プランクトンの光合成に利用されたり,大気中に放出されたりします。2007年の白潮では,相当量の炭酸カルシウムとCO2が生成されたに違いありません。ブルーム発生海域では,視界不良のため博多湾の伝統的な素潜り漁が行えなくなりました。また魚の回避行動による漁獲量の低下が問題にされました。ブルーム後期に発生した大量の粘質物による沿岸生態系への影響も懸念されています。加えて炭素循環やDMS発生の点でも注意を払う必要があるでしょう。

4.博多湾の円石藻ブルームの発生機構に関する研究

 なぜ博多湾で大規模な白潮が長期にわたり発生し続けたのでしょうか?また今後もこのようなブルームが起きるのでしょうか?私は,福岡県水産海洋技術センターや福岡市保健環境研究所の協力を得て,2007年のブルーム以降に定期的な調査を始めました。プランクトンのブルーム発生機構を明らかにするには,対象生物の生活史や生態,そして生理生態的特性に関する研究が必要です。他の地域集団との遺伝的類似性を比較することで,ブルームの原因生物がどこから来たのか,由来について推定することも可能です。しかしこれまで日本沿岸域で円石藻が問題にされたことはあまりなく,博多湾の円石藻ブルームに関する研究は,1からのスタートとなりました。これまでの調査から,博多湾では,円石藻ブルームが発生する3~4月以外の時期には,0~50細胞/mlという低い細胞密度で存在することが分かりました。一方,湾外の玄界島沖合では,年間を通して50~1,000細胞/mlのより高い細胞密度でした。博多湾のG. oceanica は湾外から供給されているのでしょうか? G. oceanica には,COX3というミトコンドリア遺伝子にいつくかのタイプがあることが分かりました。そこで国立環境研究所の微生物系統保存施設で保存されている日本沿岸各地から分離されたG. oceanica と博多湾から分離したG. oceanica についてこの遺伝子の比較検討を行ってみました。その結果,博多湾由来の株は黒潮や対馬暖流の株と近縁であることが分かりました。博多湾沖合を対馬暖流が流れているという状況からも,博多湾のG. oceanica は対馬暖流に由来する可能性が高いと考えています。

 円石藻ブルームの特徴の1つに,短期間に高い細胞密度状態に達することが挙げられます。福岡県水産海洋技術センターの2007年4月5日の赤潮発生状況速報では,博多湾内の最高細胞数が1,125細胞/mlだったのが,翌日には約19倍の21,190細胞/mlになりました。円石藻の分裂速度は,最適な条件でも最大で1日2回の分裂ですので,こうした急激な細胞数の増加には,海流や風の影響による細胞の集積や海底で休眠していた細胞が新たに参入・増加するというような別の現象が関与している可能性が考えられます。そこでブルーム以外の時期にG. oceanica がどのような状態で存在しているのか,DNAの存在量から細胞数を推定できるリアルタイムPCRという手法を用いて調べてみました。その結果,海水中の細胞数は,直接計数の値とほぼ一致しました。一方,海底堆積物からは全く検出されませんでした。このことからG. oceanica には,他の赤潮生物で知られるような休眠状態の細胞は存在しないだろうと考えています。

 実験室で培養株をいろいろな条件下で培養すると,円石をもたない細胞が観察されるようになります。こうした細胞の表面には,実は透過型電子顕微鏡でしか観察できない薄い鱗片状の構造が存在します。Emiliania huxleyi というG. oceanica に近縁な種に関する研究では,円石をつけた細胞と円石の代わりに鱗片をつけた細胞では,核相(円石細胞は染色体数が複相で鱗片細胞はその半分の単相)や生理生態的な特性が異なることが分かっています。例えば最近の研究では,鱗片細胞はウイルスに対する抵抗性が強く,円石細胞がウイルスに感染,溶解した中でも,平気で増殖することが分かっています。核相がスイッチすることで,円石細胞から鱗片細胞に変化して,ウイルスからの感染を免れるようになるのです。E. huxleyi に近縁なG. oceanica でも同様の戦略をとっている可能性は高いと考えています。

 実は,円石藻が短期間に大ブルームを形成する過程で,この円石のない鱗片細胞が関与するのではないかと考えています。鱗片細胞は,小さく,特徴が少ないため,顕微鏡下で検出・計数するのはほとんど不可能です。また高い細胞密度で海水中に存在していても,衛星では検知できません。しかし,環境中のG. oceanica のDNA量や円石藻に特異的な光合成色素量を計測することで,モニタリングは可能になるはずです。2009年の春に円石藻ブルームが博多湾で発生するかどうかは分かりませんが,是非,円石藻と円石のない鱗片細胞を追跡してみたいと考えています。

(かわち まさのぶ,生物圏環境研究領域
微生物生態研究室主任研究員)

執筆者プロフィール

河地 正伸氏

 最近,蹴球同好会に入会しました。スポーツが心身のバランスを保つのにとても大切だということを実感しています。お酒も美味しい・・。研究所でもっとクラブ活動が盛んになると良いですね。