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植物の大気汚染ガス障害のしくみ−古い問題に対する新たな仮説

研究ノート

佐治 光

 大気汚染ガスのオゾン(O3)や二酸化イオウ(SO2)が植物に障害をもたらすことは古くから知られており,葉に生じる特徴的な病班(図1A)が大気汚染の生物指標として利用されている。このような障害が起こるしくみについてこれまで様々な研究が行われ,大気汚染ガスと接触した葉で活性酸素やエチレンが発生し,これらの物質が障害と深くかかわっていることが明らかとなった。私たちは,遺伝子操作により,活性酸素を細胞内から消去する酵素を増やしたり,エチレンの発生を抑えたりすることで,植物がオゾンや二酸化イオウに対して強くなることを発見し,障害発生におけるこれらの物質の関与を裏付けるとともに,遺伝子組換えにより大気浄化用植物を開発する糸口を得た。

病班の写真
図1 特徴的な病班
A:0.2ppmのオゾンと1日間接触させたタバコの葉に現れた病班
B:タバコモザイクウィルスを感染させたタバコの葉に生じたHRによる病班(農業生物資源研究所大橋祐子氏提供)

 活性酸素は私たちのいろいろな病気にも関与している毒物で,核酸や脂質などの重要な生体物質に損傷を与えることから,植物の大気汚染障害もこれによる生体物質の酸化的分解や失活を通してもたらされると考えられるようになった(図2A)。いっぽうエチレンは植物の老化,落葉や果実の成熟を促す植物ホルモンで,様々なストレス条件下でも発生し,ストレスシグナルとしての役割をはたすようである。その作用機構はまだ解明されていないが,生成については,メチオニンから3段階の酵素反応で合成されることがわかっている。オゾンや二酸化イオウとの接触時にもそれらの酵素の活性や遺伝子発現が誘導されることがわかり,それがエチレン発生の引き金になっているようである。このようにエチレンは植物自身が持っている酵素反応系によって合成され障害を促進するため,そのような自分で自分の首を絞めるような機構がどうして植物に備わっているのか,また上述の活性酸素とどう関係しているのかといった点が疑問であった。

図2
図2 大気汚染ガス(O2,SO2)障害に至る過程についての2つの仮説
A:活性酸素の毒性を主な要因とする従来の仮説 B:HRの誘導によるとする新たな仮説

 最近植物と病原菌との相互作用についての分子生物学的研究が進み,その際植物側に生じる細胞死のしくみが明らかになるにつれ,大気汚染障害のしくみについての新たな仮説が生まれつつある。植物がかびやバクテリアなどの病原菌に対して持っている抵抗反応の一つに過敏感反応(HR)があり,病原菌が侵入した部位の細胞が死滅し,病原菌をそこに閉じこめるとともに非感染部位の細胞において一連の防御遺伝子の発現が誘導され,病原菌の移動や再感染を阻止する体制が整えられる。ここで起こる細胞死の機構についての研究が進むにつれ,これが遺伝的プログラムにのっとった自殺(動物細胞でいうアポトーシス様のもの)であることがわかってきた。そして,大気汚染ガスと接触した植物の葉においても,HRで観察されるものとほとんど同じ反応が生じていることが明らかになってきた。たとえばHRにおいて活性酸素やエチレンの他にもサリチル酸などの物質がシグナル因子として働くことが示唆されているが,それらの物質は大気汚染ガスとの接触時にも発生し,障害に関与しているようである。大気汚染によって生じる病班はHRを起こしている組織に認められるものとよく似ており(図1A ,B),大気汚染ガスと接触させた植物では,HR時にみられる一連の防御遺伝子の発現が誘導され,病原菌に対しても抵抗性を示すようになる。となると,細胞死のしくみも両者で共通なのではないかという予想が生まれ,大気汚染障害は,大気汚染ガスにより細胞の自殺プログラムにスイッチが入ることによってもたらされるという可能性が考えられる。この場合,活性酸素やエチレンは細胞死を誘導するシグナル因子として働き,病原菌がいないにもかかわらず葉全体でHRを誘導すると考える(図2B )。

 この仮説が正しいかどうかはさておき,大気汚染ガスと接触させた植物でこれまでに観察されている事象をうまく説明している。今後植物における細胞死の機構がより明らかになるにつれこの問題も決着することと思われるが,もしこの仮説が正しいとすると,大気汚染ガスだけでなく,他の様々なストレス要因によって植物に生じる障害の機構についても再検討する必要が生じてくるであろう。また,大気汚染に強い植物を作成するために操作する遺伝子として,細胞死に直接かかわるプロテアーゼ,ヌクレアーゼのような酵素やその制御因子などのものも候補にあがってくるであろう。

(さじ ひかる,生物圏環境部分子生物学研究室)

執筆者プロフィール:

滋賀県出身,京都大学農学部卒。専門は,植物生理学。趣味は旅行,特に温泉が好き。