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より少ない情報による化学物質の曝露評価手法の検討

政策対応型調査・研究:「化学物質環境リスクに関する調査・研究」から

白石 寛明

 我々は多くの化学物質に取り囲まれて生活している。いま私は,合成染料で着色された椅子に座り,液晶材料が使われた画面を見ながら合成プラスチックのキーボードをたたいている。これを印刷するにはインクジェットのプリンターを使うが,これにはカラーと黒のインクを使うことになるだろう。使われている物質が表示されていることはまれで,多くの場合,原材料を利用する製造業者や一般消費者など製品の利用者にはわからないのが実情である。たとえ物質名の表示があったとしても,基礎知識がなければその意味を理解できないに違いない。化学の技術により製造された物質が社会生活を営む大きな基盤であることは疑う余地はないが,人が創り出した新たな物質を利用する行為には人や環境へなんらかの悪い影響をあたえる危険が伴う。これを未然に防止することが何よりも必要であり,このためにいくつもの法律が制定されている。これらの法律に基づき化学物質の使用になんらかの制限を設け,管理するためには,その行為がもたらす危険性を科学的に評価し,合理的な管理の方法を立案する必要がある。

 化学物質の人や環境への危険性は,2つの側面から評価することができる。1つは,化学物質のもつ毒性の性質と強さであり,他の1つは化学物質をどれだけ体内に取り込むかである。前者を有害性(ハザード)評価,後者を曝露評価と呼び,この2つの知見があって,はじめて危険性の評価(リスク評価)が可能になる。いかに猛毒な物質であろうと接触がなければ安全であるということであるが,人への発がん性を知りたいが微生物を用いた変異原性の試験結果しかない,環境中の濃度が知りたいが製造量しかわからないなど評価に利用できる知見には限りがある。必要な項目をなんらかの関係式を使い外挿から求めざるを得ないことが多いため,化学物質のリスク評価には多くの不確実性が存在する。一方で,何万ともある化学物質をすべて試験し,リスク評価に利用するデータを作成することは不可能である。試験や調査にさくことのできる資源は限られており,これをどのように合理的に配分するのか,どのようにしたら外挿に伴う不確実性を小さくすることができるか,また,曝露の変動要因と時空間的な変動の大きさをどのように評価するかが研究テーマとなる。政策対応型研究センターとして新設された化学物質環境リスク研究センターでは,これを高精度なリスク評価手法の開発として研究を進めている。研究は2つに区分している。1つは,政策的な要請に基づき実施している研究課題であり,1つはリスク管理の将来的な展開を目指した研究課題である。今回紹介する研究内容は,前者のうちで,曝露評価研究室が担当している曝露評価に関連した部分である。

 政策的な要請に基づき実施している研究課題については,特定の事案に対しできるだけ早い成果が求められている。曝露評価は,製造,使用,消費,廃棄,再利用などのそれぞれの場面で行うと確からしさは向上するが,このようなデータを短期間に得ることは現状では非常に困難である。一般環境からの曝露による有害な影響を予防する化学物質の審査及び製造等の規制に関する法律に基づく新規化学物質の事前審査では分解性試験,蓄積性試験と毒性試験から安全性の判断をしている。曝露評価に関連する要素として,生物分解性と生物濃縮性という物質が本来持つ性質が重視されているが,曝露に関連する揮発性,光分解性,加水分解性などの物性や製造・輸入予定量や用途など排出量に関しては,十分な評価は行われていない。化学物質の製造・輸入数量や用途など環境侵入量に関連するデータ及び水溶解度などの物理化学的性状は限られた情報しか入手できないが,これらをできる限り活用し環境濃度を予測できれば,より現実に近い形での曝露評価に基づくリスク評価が可能となり,表示,用途制限など,幅広い選択肢によるリスク管理手法への応用が可能となる。そこで,現在入手可能な限られた知見を数理モデルや統計モデルにより補完し,環境濃度を予測する研究として「より少ない情報による曝露評価手法」の検討を進めている。以下,これまでに作成された曝露量の予測ツールについて紹介したい。人が環境から化学物質に曝露する経路には,大気,水,土壌とそこに生息する食物となりうる生物が考えられる。これらを総合的に把握できる数理モデルとして,媒体間での移行・分解を考慮した多媒体モデルを組み込んだリスク評価システムを作成している。このシステムの主要な考え方はEUでのリスク評価にかかわる技術指針によっている。EUではこれに対応するものとしてUSESというモデルが利用されているが,本研究では,計算内容の透明性,評価式の修正の容易さに重点をおき,表計算プログラムのファイルとして記述することにした。USESで使用される中間値も含めたすべての変数を表形式で列記し,それぞれに演算式を関連づけ,簡単な入力シートが作成されている。また,我が国独自の機能として,PRTR法による排出量の集計値や化審法における届出数量の利用や環境測定値を参照し,環境排出量を推計することや予測値と実測値が比較できるシステムとなっており,優先的にリスク評価すべき化学物質を絞り込む過程で利用できるものと期待している。

 媒体別のモデルでは,水質のモデルとして河川と内湾に関して検討を進めている。水環境中の化学物質の濃度は,水の流れに大きく依存しており,地域に固有な環境場の影響が大きい。このため予測精度を向上させるには,水の流れを組み込んだモデルが必要とされる。種々の化学物質に対して汎用性があり,簡潔に水中濃度が予測できるよう,流量の変化と汚泥の巻上げを考慮した河川の1次元不定流・河床変動型の水理モデルに,化学物質の移流,拡散,河床や懸濁粒子への吸着,河川中での分解を組み合わせた水質予測モデルの開発を行った。環境要素としては,大気,表層水,表層水中の懸濁粒子,浮遊・沈降を繰り返す2種類の粒子からなる泥土とその間隙水,さらに移動しない河床粘土とその間隙水を想定し,化学物質の大気への揮散や粒子から間隙水への移動は二膜理論,固相への吸着は水相と平衡状態が成り立っていると仮定した1次元不定流計算コードが作成されている。

 内湾モデルでは,3次元海水流動モデルの本体にプリンストン海洋モデル(POM)を選び,これを内湾に適用するために潮汐,河川,風などの影響を考慮できるようにコードの修正を行った。海流モデルと化学物質挙動モデルから,溶存態の濃度,懸濁態有機物中の濃度,プランクトン体内の濃度,魚類体内の濃度,底生生物体内の濃度,底質懸濁態有機物中の濃度,底質間隙水中の濃度などが予測できる。化学物質の負荷としては,河川,港口,航海中の船舶,流域,降雨,大気粒子を時空間的に考慮できる。化学物質の挙動として,懸濁態有機物への吸着と脱着,生物の摂取,濃縮および排泄,大気への揮発,底質への沈降と巻き上げを考えるとともに,海洋環境で受ける反応として生分解,光分解,加水分解および酸化分解を考慮することができる。内分泌攪乱作用が懸念されているビスフェノールAを対象物質に東京湾を対象水域として適用性を検証した結果,海水濃度の予測値と実測値はよい相関を得ることができた。このときの東京湾におけるビスフェノールAの物質収支を計算した結果を図に示す。

計算結果の図
図 東京湾におけるビスフェノールAのモデルによる物質収支の計算結果

 ここで紹介した研究のほかにも,既存の知見を利用した統計モデルや,化学物質データベースの作成が行われている。これらは,リスク管理の将来的な展開を目指した研究課題である「空間的・時間的変動を考慮した曝露評価手法の開発」で開発されている総合システムとの連携をはかり,総合的なシステムとして発展させていく予定である。

(しらいし ひろあき,化学物質環境リスク研究センター曝露評価研究室長)

執筆者プロフィール:

化学物質環境リスク研究センターと環境ホルモン・ダイオキシン研究プロジェクトに籍を置いている。久しぶりに調査に行った東京湾で船酔いし,ショックを受ける。運動不足の解消が,現在の課題。