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2016年4月30日

摩周湖の湖底へ

【調査研究日誌】

田中 敦

 摩周(ましゅう)湖は、北海道の東部、阿寒国立公園にある水深212 mのカルデラ湖です。写真1を見ておわかりのように、摩周湖の周囲は崖で囲まれており、流入、流出河川はありません。手つかずの自然が広がる集水域全域が、国立公園の中でもっとも保護レベルの高い特別保護地区に指定されています。そのため、許可なく湖面に立ち入ることはできません。ここでは、あまり経験できない極寒の摩周湖上の様子、そして、私たちもはじめて目にすることができた深層の水や湖底の様子をご紹介します。

写真1 南側上空から見た摩周湖(左下に見えるのは摩周湖第一展望台)

 国立環境研究所は、環境省などの諸機関の許可を取り、長らく摩周湖の調査研究を行ってきました。研究のねらいは3つあります。汚染レベルの低い摩周湖水を利用して、大陸など湖外から飛来する汚染物質の検出を行うこと。世界有数の透明度に代表される摩周湖で起きている生物や物質の動きを調べること。さらには、日本でも北に位置する摩周湖でも地球温暖化の影響が現れる可能性があるため、将来に備えた観測データを蓄積することの3つです。いずれにおいても、深層の水や湖底泥の情報は重要な役割を占めます。

 湖面に降りる道もない摩周湖に、頻繁に調査に入ることはできません。私たちは、4つの大学や北海道立総合研究機構などと共同で、年に2回の調査を行っています。さらに、地元の団体などの協力をいただき、その他の期間に小規模調査を行うほか、水中で自動的にデータを採取するデータロガーを活用して通年のデータを採取しています。

写真2 氷上からの透明度観測の様子

 近ごろは、冬の摩周湖を訪れる方もたくさんいます。スノーシューと呼ばれる洋式のカンジキをはいて、雪におおわれた真冬の尾根道を散策するガイドツアーも人気です。冷え切った青黒い湖面、透明な薄氷がキラキラと太陽の光を反射するさまなど、冬場の摩周湖の表情はさまざまです。湖面が完全に結氷すれば、真冬の調査も可能になります。ただし、すべての観測機材を背負って崖を降りて行かねばなりませんが……。観測地点に到着し、氷に開けた穴から透明度板を降ろすと、ボートからの観測時のような揺れがないため、透明度板はどこまでもまっすぐ降りて行きます(写真2)。しまいには、水に映る自分の瞳の中に青白い透明度板がすっぽりと入り込んでしまいます。

 氷の真下にある水の温度が、ほぼ0℃であることは当然ですね。それでは、水深212 mの摩周湖湖底の水温は何度か想像できるでしょうか?湖底の水温は、年間を通して約4℃です。水は4℃の時に、もっとも密度が大きくなる性質があります。そのため、氷の下の0℃の水よりも、4℃の水の方が密度が大きく、湖底にはやや暖かい水が沈んでいるのです。真夏になると、表層の水温は20℃近くまで上がります(図1 aの太線)。0℃の氷結期(2月末ごろ)と水温の高い夏とのあいだのどこかに、水温が4℃になる時期があるはずです。摩周湖の場合は、5月中旬ごろに水温が表層から湖底まで4℃で一定となります(図1 aの細線)。この時期に湖水は表層からほぼ湖底まで循環を起こします。一方、夏から冬にかけて水温が下がる間、年末ごろにもふたたび循環が起きます(図1 aの破線)。水温が下がる過程では、夏と冬で深い水深の水温がピタリと一致しています。循環が終わると表層と深層とで水温差にもとづく密度差が生じ、上下に水の混合が起こりにくい成層状態となります。

 ところで、夏場の深層水(水深200 mよりも深い部分)の水温が、わずかながら高くなっていることにお気づきでしょうか(図1 aの○印)。これは、湖底にある水温の高い湧水由来の熱の影響です。この湧水には、カリウムなどのさまざまなイオン成分が含まれています。そのため、水に溶けている総イオン量の指標となる比電気伝導率が、湖底に近づくにつれて大きく増加しています(図1 b太線)。一方、表層部の比電気伝導率がわずかながら下がっています。これは、湖水にくらべてイオン成分量の少ない雨水が流入したためです。このように、循環期の5月と成層期の8月の年2回調査を行うことで、その期間に大気経由でもたらされた事象(この場合は降水に過ぎませんが)を検出したり、その量的な評価が可能となったりします。湖底からの供給、雨水による希釈、地下水による流出などのバランスにより、何百年もかけて現在の摩周湖水のイオン濃度が形作られてきました。一例として、1983年から2015年までのカリウム濃度の測定値は0.91~0.92 μg/gの範囲に収まります。このように、主要なイオン成分の濃度変化は非常にゆっくりとしたもので、この変化を検出するためには、何十年にもわたって1%を上回る正確さでの分析技術、精度管理が要求されます。

図1 クリックで拡大画像がポップアップします

図1
a) 摩周湖水温の鉛直分布(太線:2015 年8 月、細線:5 月、破線:1 月。○印は強調のためにつけたもの)
b) 比電気伝導率の鉛直分布(太線:2015 年8 月、細線:5 月)
c) 溶存態硝酸態窒素濃度の鉛直分布(太線:2015 年8 月、細線:5 月)

 このような高精度測定技術を必要とする項目だけでなく、高感度測定法によってはじめて検出される項目もあります。たとえば、水中の溶存水銀については、パージトラップ原子蛍光法という方法によって、ようやく0.1 pg/g(10兆分の1)レベルの低濃度の水銀分布が得られるようになってきました。生物生産や透明度に深く関連するリン酸や硝酸といった栄養塩についても、従来の一般的な吸光光度法では検出できませんでした。これらも、濃縮法の開発やICP質量分析法の進歩などにより、次第に定量できるようになりました。図1 cに溶存態硝酸イオンの深さ方向分布を示します。5月から8月にかけて、植物プランクトンなどの生物に取り込まれ、硝酸濃度が大きく減少していることが分かります。逆の見方をすれば、ひと冬を越した翌春になると、生物からの分解や雨などの供給により、ふたたび硝酸濃度は元に戻ることになります。

写真3a
水深200m の摩周湖水に見られた粗大粒子(細長く光っているのはロープの反射光)
写真3b
水深210m の摩周湖底泥上に残る規則正しい模様

 成分の化学分析ばかりでなく、湖水や湖底を直接観察できれば、別の発見があるかもしれません。手のひらに乗るほど小型の民生用ビデオカメラと耐圧容器を組み合わせることで、比較的安価に水中の様子を探ることができるようになってきました。2014年に朝日新聞と共同観測をおこなったところ、全く光の届かない世界である水深200 mの水中に、多数の粒子が漂っていることが観察されました(写真3 a)。プランクトンの死骸の固まりをはじめ、木の葉の破片などからなる粗大粒子が、湖底に向けてゆっくり沈降している様子を目の当たりにすると、これらの粒子の量的な把握や水中・湖底での挙動など、新たなチャレンジの意欲がわいてきます。今回の観測では、もう1つ大きな謎が見つかりました。水深210 mの湖底に、タイヤ痕のような規則正しい模様が見つかったのです(写真3 b)。カメラには生き物の姿は映っていませんが、摩周湖に生息する大型動物は、魚類のほかはウチダザリガニしかいません。なぜ、こんな深いところに生き物がいるのか、どんな生態なのか、浅いところに生息する個体とくらべて、種々の汚染物質が異なる濃縮傾向を示すのかなど、新たな興味がつきません。



(たなか あつし、環境計測研究センター同位体・無機計測研究室 主任研究員)

執筆者プロフィール

著者写真(田中)

関東地方以外に住んだことのない寒がりの私ですが、摩周湖に行くと気が張るのでしょう、不思議とあまり寒いと感じません。スギ花粉症に悩まされることのない北海道に住むのもいいな、と思ったりしています。