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2020年6月30日

災害時における有害化学物質の流出事故を
想定した分析法の開発

特集 災害に伴う環境・健康のリスク管理戦略に関する研究
【研究プログラムの紹介:「災害環境マネジメント研究プログラム」から】

中島 大介、髙澤 嘉一

 環境中の化学物質を測定する際には、ガスクロマトグラフ-質量分析計(GCMS)がよく使われます。GCMSは化学物質を高感度に分離分析する装置で、物質の同定能力に優れ、定量性も良いため、環境中の農薬分析や食品中の添加物など、様々な定量分析に使用されています。しかし、それは「何を測るか」がはっきり決まっている場合です(ターゲット分析と呼ばれます)。大規模な災害時には、流失した化学物質、あるいはそれらが反応して生成した物質、さらには爆発や火災などによって生じた物質など、環境中に放出された物質が何であるか想定できない事態も考えられます。

 この研究プロジェクトでは、そんな状況でも活用できる2つのGCMS分析法を開発しています。

 ひとつは、多種類の化学物質のうち、わずかな構造の違いでも識別でき、またそれが何であるかを精度よく判別できるノンターゲット分析法です。もうひとつは、どんな物質がどのくらい存在するのかを大まかに測定できる全自動同定定量システムです。今回はこれらの研究について紹介します。

二次元ガスクロマトグラフ-高分解質量分析計によるノンターゲット分析

 化学物質の漏洩事故では、漏洩した化学物質に関する物理化学的な情報の有無により使用する分析法が選択されます。ここでは、漏洩した化学物質に関する情報が無い場合や極めて限定的な場合に特に効果を発揮するノンターゲット分析と呼ばれる未知物質の同定手法を紹介します。私たちが検討している方法は、二次元ガスクロマトグラフと高分解能飛行時間型質量分析計を分離検出器として用いる分析手法であり、特に揮発性化合物や中揮発性化合物に対して高感度で広い質量範囲における精密質量スペクトルの高速測定が可能という特長を有しています。わかりやすくいうと、大気中に漂うような性質を持った化学物質の構造をより正確に推定できる分析手法でしょうか。分析対象とする環境媒体は、大気、水質、土壌など幅広く対応しています。化学物質の一般的な分析手法では、試料精製や前処理と呼ばれる作業により分析対象物質の測定を妨害する成分を事前に除去することが必要ですが、私たちの分析手法では、熱脱着装置を組み合わせることで試料に含まれる化学物質を二次元ガスクロマトグラフィーに直接導入するシステムとなっています。つまり、試料精製を行わないことで災害非常時に求められる同定分析の迅速性と分析対象成分の網羅性を高めています。通常用いられる一次元ガスクロマトグラフィーでは、多数の化学物質を含む試料を分析するとクロマトグラフィーの分離能不足によってクロマトグラム上には重なった成分ピークが観測されます。一方、私たちの分析手法では極性の異なるカラムを2本直列に接続し、その途中で各成分の冷却捕捉と熱放出を数秒間隔で連続的に繰り返すことで、各ピークの特性に関する情報量と分離能を増やす仕組みとなっています。これによりピーク幅がシャープになり分離能の向上に伴う見かけのS/N比(Signal to Noise ratio)が大幅に改善するため、より高感度な分析を行うことが可能となります。高感度な分析方法であれば分析に必要な試料量を減らすことができるので、人的負担も軽減し試料運搬も素早く行えるといった利点があります。つぎに、2016年の熊本地震の際に採取した水質試料に対して私たちの分析手法を適用した結果を紹介します。この時には、採水から化合物の同定までできる限り短時間で実施すること、試料に含まれるすべての化合物を一回の測定で同定することを目標にしました。分析を実施するには、まず水中に含まれる化学物質を集める必要があります。そこで、私たちは化学物質を吸着させる膜が塗られた小さな撹拌子(磁石を内包した棒)を水質試料(50 mL)に投げ込み、撹拌子を回転させることで化学物質を集めました(図1)。

水質試料に含まれる化学物質を集める様子の図 (左:小さな撹拌子、右:回転時)
図1 水質試料に含まれる化学物質を集める様子(左:小さな撹拌子、右:回転時)

また、この小さな撹拌子は加熱脱着装置に直接導入できるため、採水から測定データを得るまでわずか1日で未知物質の同定分析を実施できました。分析の結果、3,000種以上の成分ピークが得られ、その中でも質量誤差が少なくクロマトグラム間の一致因子も良好な同定確度の高い化合物数は、トリクロサンや環状硫黄など150種以上に及びました(図2)。二次元ガスクロマトグラフィーも万能ではありませんので、例えば汚れた試料など検出ピークが非常に多岐にわたる場合には分析対象成分を十分に分離できない場合も起こります。そのような場合には、デコンボリューションと呼ばれる数学的手法を利用して、重なりあった質量スペクトルを切り離して、個々の成分のきれいなスペクトルを切り出す作業を行います。一般的に、デコンボリューションはスペクトルを複数の構成要素に強制的に分割するため、試料によっては必ずしも良い結果を生むとは限りませんが、環境試料のように、たくさんの妨害物質が存在する中から微量な分析対象成分を探し出すには、非常に有効なツールであると言えます。

熊本市内河川水のノンターゲット分析におけるトリクロサンの同定の図
図2 熊本市内河川水のノンターゲット分析におけるトリクロサンの同定

災害対応用全自動同定定量システム(AIQS)-GCの開発

 一般にGCMS分析では、装置各部位の汚れや劣化、真空度の違いなどによって感度やピーク形状が日々微妙に変化するため、測定のたびに、ピークが検出されるまでの時間(保持時間)や質量スペクトルを確認し、濃度と応答値の関係式(検量線)を作成して同定・定量しなければなりません。これには多くの標準物質を保有している必要があることと、毎回多くの手間と時間をかけて検量線を作成する作業がついてまわります。これを回避するため、装置の性能を常に一定に保つことによって、同じ状態で測定された質量スペクトル、保持指標及び検量線情報を使い回すことを可能にする、というのが全自動同定定量システム(Automated Identification and Quantification System, AIQS)の考え方です。もし災害によって何らかの化学物質が漏洩している可能性があり、それが何なのかわからない状態であれば、多くの物質を短時間に測定できるAIQSが活躍すると考えられます。実際に阪神・淡路大震災の後に環境庁(当時)が取り纏めた「緊急時における化学物質調査マニュアル(平成10年3月)」にも掲載されています。当時は285物質の相対保持時間、相対感度係数及び質量スペクトルが収載されていましたが、その後1,000物質程度まで拡充され、市販されるまでになっています。

 このAIQSを災害時に利用するには未だ改良の余地があります。ひとつは、収載物質が平時の環境モニタリングを想定していることです。災害時には、工業原料や中間体など普段は排出が想定されない物質もターゲットに含める必要があります。そこで災害時を想定し、更に数百物質をデータベースに追加する作業を行っています。ふたつめは、市販されているAIQSソフトウェアが2社のGCMS装置にしか対応していないこと、さらにメーカーによって測定条件もソフトウェアも、データベースも異なることです。したがって非対応の装置を保有している機関ではAIQSを利用することができません。そこで、できるだけ多くのメーカーの装置で共通に使えるAIQSソフトウェアを開発中です。このために、測定条件を統一し、各社の測定データを共通フォーマットに変換して読み込めるようなプラットフォームを作成しています(図3)。最終的にはAIQSソフトウェアをウェブ上で作動させ、ソフトウェアそのものを保有していなくても、一定の条件で測定したクロマトグラムをアップロードすれば解析結果が得られるシステムを提供する予定です。

開発中の機種非依存型AIQSの解析画面の図
図3 開発中の機種非依存型AIQSの解析画面

 大規模な災害時に、実際の環境モニタリングを担当するのは地方公共団体ごとに設置されている地方環境研究所(地環研)だと想定されます。そこでこのプロジェクトでは地環研に広く協力を仰ぎ、国立環境研究所との共同研究として展開し、現在40近い地環研に参加いただいています。なお誤解されがちですが、AIQSは「GCMSの操作に不慣れでも手軽に結果が出せる魔法の測定法」ではありません。むしろ、GCMSを毎回一定の状態に整えられるだけの知識と技術が要求される上級者向けの手法です。現在、各参加機関に約100物質を混合したチェックスタンダード溶液を配布して測定していただき、装置の条件を整えられているかどうかの合否判定を行っています。地環研の共同研究者の皆さんは、通常業務でGCMSを利用している研究者・技術者集団であるものの、最初は合格することができないこともあります。そんな場合でも、測定結果を観ながら注入口回りの洗浄やカラムの入口側・出口側のカット、イオン源の洗浄などの対策を講じ、順次合格できるようになってきています。国環研では各機関の担当者を集めた研修会を継続的に開催し、技術の向上を図りながら、新しいAIQSソフトウェアの開発を共に進めています。

 この原稿を書いている間に、震災から9度目の3月11日を迎えました。今でも、石巻の日和山から見下ろした津波被災地の光景を忘れられずにいます。環境化学が災害時にできることは何か。人々の健康と安全を守るために何が必要か。自問自答しながら研究に取り組んでいます。(了)

(なかじま だいすけ、環境リスク・健康研究センター曝露影響計測研究室 室長)
(たかざわ よしかつ、環境計測研究センター 応用計測化学研究室 主任研究員)

執筆者プロフィール

筆者の中島 大介の写真

(中島)AIQSの改良を始めた頃には気づかなかった、GCMS測定の奥深さに感嘆しています。また多くの地環研に仲間ができたことが、私にとっての宝物です。

筆者の髙澤 嘉一の写真

(髙澤)最近は、日帰りで眺めの良い稜線歩きを楽しんでいます。見晴らしの良い景色を目にしたときは疲れが吹き飛び爽快な気分になります。これからも無理をしない程度に続ける予定です。

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