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トレーサーで見る中層大気中の物質輸送

環境問題基礎知識

江尻 省

 南極や北極上空の成層圏では,冬から春にかけて大規模なオゾン層破壊が観測され,しばしば話題になっています。

 オゾン層は,我々の住む対流圏の上,中層大気(成層圏+中間圏)の下部にあたる成層圏にあります。成層圏のオゾン層の破壊に関連する物質は,フロン・ハロンなども含め,そのほとんどが人間活動によって中低緯度の対流圏で放出されています。破壊関連物質の発生源である中低緯度で成層圏オゾン層破壊が問題にならず,破壊関連物質の発生源がほとんど無い高緯度(極域)で大規模な成層圏オゾン層破壊が起こるのはなぜでしょう?

 この疑問に答えるためには,化学的なオゾン破壊(化学過程)と大気中の物質輸送(物理過程)の両方を知る必要があります。化学的なオゾン破壊については,齋藤尚子氏(今号5頁から)や杉田考史氏(21巻5号),入江仁士氏(23巻1号)の記事をご参照いただくとして,ここでは大気中の物質輸送,特に緯度・高度方向の物質輸送について記述したいと思います。

 図1は,地球大気の緯度方向の物質輸送を模式的に表した図で,2002年の気象集誌に掲載されたPlumb博士の論文の図(Plumb, R. A., 2002. Journal of the Meteorological Society of Japan, 80, pp793-809, Figure 2)を日本語化し加筆したものです。この物質輸送には,太陽放射加熱により駆動されるもの(矢印(1))と大気波動の砕波(大気波動が他の大気波動あるいは平均流との相互作用で崩れたり,大気波動自身の振幅成長に伴って崩れたりして,波動のエネルギーや運動量をその場に与えること)によって駆動されるもの(矢印(2)(3)(4)(5))があると考えられています。中低緯度の対流圏で発生したオゾン層破壊関連物質は,赤道付近の活発な対流活動及び中緯度の対流圏界面付近の擾乱領域を通して成層圏に侵入します。大規模なオゾン層破壊が起こる冬極の成層圏内では,物質は,総観規模擾乱(数千kmスケールの大気の擾乱:S)やプラネタリー波(主に大陸と海洋の表面温度の違いや大規模山岳により強制的に作られる大気波動:P)の砕波によって駆動される輸送(矢印(2)(3)(4))に乗って極域へと運ばれます。また,中間圏には大気重力波(重力を主な復元力とする大気波動:G)の砕波によって駆動される,夏極から冬極への大規模な物質輸送(矢印(5))があることが予想されており,この輸送は冬極で下降流になって成層圏へ流入しています。

大気中の模式図
図1 緯度方向の物質輸送(子午面循環)の模式図
対流圏の赤道付近の太い矢印で示された輸送は,太陽放射過熱により駆動される物質輸送(ハドレー循環)。細い矢印で示された輸送は,様々な種類の大気波動によって駆動される輸送を表している。それぞれの輸送の駆動源になっている波動をS(総観規模擾乱),P(プラネタリー波),G(大気重力波),それぞれの砕波領域は灰色で示した(2002年気象集誌,Plumb博士の論文の図(Plumb, 2002., Figure 2)を日本語化し加筆した)。

 図中の矢印は定性的には辻褄が合っており,あたかも確認された物質輸送であるかのように描かれていますが,必ずしも全ての矢印(物質輸送)が観測によって十分に確認されているわけではありません。鉛直方向の物質輸送は,水平方向に比べて循環の速度や規模がはるかに小さいため,十分に観測されてはいません。また,特に中層大気は,地上観測では成層圏界面をまたいで鉛直方向に連続な観測が難しく,観測点も少ないため,物質輸送を観測によって確認することが難しい領域です。

 この中層大気における物質輸送を観測するのに有効な手法として,『トレーサー』を使って間接的に大気の流れを知る方法があります。例えば,遠くから大きな川を見た場合を想像して下さい。水が澄んでいれば,流速どころか流れの方向すら分からないかもしれません。しかし,ここに川沿いの桜の木から桜吹雪が舞い散ったらどうでしょう?我々は,川面に浮かぶ桜の花びらの動きや集まり具合を観察することで,間接的に水の流れや淀みを知ることができるはずです。このとき,桜の花びらは水の流れを知るための『トレーサー』になっています。中層大気の物質輸送を観測する場合の『トレーサー』としては,中層大気中での寿命が長く(あまり化学変化をしない)かつ観測可能な物質が適しており,一酸化二窒素(N2O)やメタン(CH4)などがよく使われます。

 最後に,『トレーサー』を用いた物質輸送の観測研究例として,人工衛星からの観測によって得られたメタンの高度分布の時間変化から,中層大気の物質輸送の一部が確認された例を紹介しましょう。図2は,日本の地球観測プラットフォーム技術衛星ADEOSに搭載された改良型大気周縁赤外分光計ILASとその後継機であるILAS-IIによって,1996~1997年と2003年にそれぞれ観測された南半球高緯度のメタンの高度時間断面図を,季節を合わせてつないだものです。1997年のILAS観測によるメタンデータに見られる白点線で示した下降流は,解析の結果,プラネタリー波と密接に関係して引き起こされているものであることが分かりました。この研究により,図1の成層圏上部を通る輸送の極渦内での下降流部分(矢印(4))が観測によって確かめられました。同じく極渦内の下降流ですが,中間圏の輸送の末端にあたる中間圏から成層圏への下降流部分(矢印(5))については,いまだ観測によって十分には確認されてはいません。しかし,2003年のILAS-II観測によるメタンデータを良く見ると,プラネタリー波駆動の下降流(白点線)とは明らかに下降速度の違う下降流(桃色の点線)があるように見えます。これに関しては,これから詳細な解析をする必要がありますが,ひょっとすると,これまで観測では十分に確認されていなかった,中間圏から成層圏への物質輸送(矢印(5))が見えているのかもしれません。

ILASとILAS-IIで観測した結果のグラフ
図2 上段はILASとILAS-IIによって南半球高緯度で1996~1997年と2003年にそれぞれ観測されたメタンの体積混合比の高度時間断面図を,季節を合わせてつないだもの
ILAS観測で確認されたプラネタリー波駆動の下降流(白点線)とは下降速度の違う,より上層からと思しき下降流(桃色の点線)が見られる。下段にはILASとILAS-IIの観測緯度の時間変化を示した。

(えじり みつむ,成層圏オゾン層変動研究プロジェクト)

執筆者プロフィール:

趣味としてパラグライダーを始めたことで,これまで単なる知識だった『気象』が身近な現実になった。フライトを通して研究に不可欠な『観測・分析・予測・確認』の自主トレに励んでいるつもりだったが,最近,最後に『考察』が抜けていたことに気付き,己の詰めの甘さを反省。