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計算論的アプローチによる社会問題への取組み

巻頭言

監事 舩橋 誠壽

 「今から25~30年は,20世紀の技術発明であるIT(Information Technology)が社会に浸透し社会をイノベートしてゆく時代である。イノベーションの時代では,技術開発の先行性で競争優位を獲得することはできない。技術発明成果の社会の受容を先取りする事業モデルの開発者が勝ち組になる」

 これは,IBMでイノベーション・技術担当副社長を務めるニコラス・ドノフリオ氏の言葉です。ITの研究開発に携わる人たちにとってはいささかつらい指摘ですが,昨今の先進国におけるITに対する学生人気の凋落ぶりを言い当てているのかもしれません。ドノフリオ氏は,この根拠を,技術経済学の分野で著名なベネズエラのカルロッタ・ペレツ氏のモデルに置いています。彼女は,蒸気機関,鉄道,重工業,自動車といった近代技術の大波が社会に浸透する過程を分析して,いずれの技術発明も,経済的な危機という分岐点を経た後,25~30年かかって社会への定着がなされており,ITについても,2000年のITバブル崩壊が分岐点であったのではないかという仮説を提唱しています。

 大塚理事長の巻頭言(2007年4月号)にありましたように,いま私たちの周りでは,科学的な知識を経済的な価値に転換するイノベーションを,どのようにすればうまく進められるだろうかということが大変に話題になっています。技術立国のためには,次々と,イノベーションを生み出してゆくことが望まれます。ドノフリオ氏は,イノベーションの事例として株式会社組織をあげています。株式会社組織は1602年に設立されたオランダ東インド会社がその起源とされていますが,この仕組みが,莫大な資本を必要とする鉄道の建設リスクを分散する役目を果たし,鉄道を社会に定着させるための効果的な手段であったと位置づけているのです。個人が生み出したアイデアを事業化するために,資本供与と経営指導をするベンチャーキャピタルもITという技術発明を社会に定着させるための新たな制度的な仕掛けといえるでしょう。

 このような新しい仕掛けをどのようにすれば見つけられるのでしょうか。これまでは,過去の事例を知識として備えた専門家たちがお互いに議論して対象分野のモデルを作りつつ制度的な施策を立案していました。この手続きの基本は今後も変わることはないと思うのですが,今日では,ITの進歩によって,私たちは格段の情報処理能力を手中に収めつつあることに着目したいと思います。医薬品の開発においては,計算機がもつ強力な情報処理能力を活用して 無数の候補を調べあげて有用な分子構造を見いだすことが当たり前になったと同じように,社会の仕組 みに関する専門家や一般の人たちの知識や感性メカニズムを計算機に移植して,莫大な情報処理能力を活用して最良の施策を探し出すような時代の到来が予期されます。

 昨今,計算機は,理論,実験に次いで新たに出現した科学発展の第三の基盤と位置づけられ,理論科学,実験科学に並ぶ言葉として「計算論的科学(Computational Science)」が提唱されています。莫大な情報処理能力を備えた計算機を誰もが使える時代に生まれる新しい科学の進め方です。この考えに基づいて,計算論的神経科学や計算論的生命科学といった分野が生まれつつありますが,中でも,社会に対する施策立案に際しての計算論的アプローチは,複雑化の一途をたどり,もはや,問題解決の処方箋を描くことが大変に困難になっている今日の社会に対する大きな救いとなると期待されます。

 国立環境研究所は,環境にかかわる実態を計測しこれをモデルとして知識化するところで大きな成果を挙げてきました。さらに,モデルに基づいた施策の立案にも立派な貢献がなされていますが,環境科学技術が置かれた今日の切迫した状況や科学技術に望まれる動向からみると,新しい科学アプローチも積極的に活用することによって,問題解決に一層の貢献を果たすことが大変に重要と思っています。

(ふなばし もとひさ)

執筆者プロフィール

 平成19年4月から監事を務めさせていただいています。物理世界を対象に,システム制御技術の研究開発に長らく取り組んできました。最近では,研究開発そのものを対象にしています。(株)日立製作所システム開発研究所主管研究長,京都大学大学院情報学研究科客員教授。