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マングローブと環境問題

【環境問題基礎知識】

井上 智美

はじめに

 このごろは「マングローブって知ってる?」という問いかけに,「何それ?」と聞き返されることはほとんどありません。たいていは「ああ,あのタコみたいな木でしょう?」とか「テレビで見たことがあるよ」といった答えが返ってきます。限られた場所でしか見ることのできないマングローブが世界中で認識されはじめてきているようです。そして,「マングローブ」は「環境問題」という言葉とセットで語られることが多いように感じます。どうもこれは,近年マングローブが急激に減少していることと関係がありそうです。

マングローブとは

  マングローブとは,簡単に言うと海にはえる森のことを指します。もう少し詳しく定義すると「熱帯・亜熱帯の潮間帯に形成される植物群落」となります。潮間帯というのは潮の満ち引きで水位が変動する海岸域のことで,このような場所のうち,マングローブ林は主に川の河口付近の真水と海水が混じりあう場所(汽水域といいます)に形成されます。ふつう,植物は塩分の含まれている海水では育ちません。生きるために吸収し続けなければならない水に,細胞や組織に障害をもたらす塩分が沢山含まれているとしたら,これは植物にとって大変な問題です。しかし実際に調べてみると,マングローブ植物の体内の塩分濃度は根の外の塩分濃度よりも低くなっていることが分かっています。海水や汽水で育つことができるという点はマングローブ植物が他の植物と大きく異なるところです。これまでの観察によってマングローブ植物には以下のような塩に対応するメカニズムがあることが分かっています。

・葉の表面にある塩類腺という器官から体内に吸い込まれた塩分を排出する[ヒルギダマシなど]。
・根が水分を吸収する際に塩分を濾過している[ヤエヤマヒルギなど]。
・体内の塩分を古い葉に集めて落葉させる[オヒルギ,ヤエヤマヒルギなど]。

 しかし,いったいどうやって塩分を排出したり濾過したりしているのか,詳しいメカニズムについては全くわかっていません。

 また,マングローブ植物を初めて見る多くの人は,奇妙な形をしたその姿にびっくりします。その最たるものが根っこの形です。冠水による酸素不足,塩分過多,不安定な底泥,といった環境に対応するため,マングローブ植物の根は何とも奇抜な形態をしています(写真参照)。

・地上に飛び出たタコの足のような支柱根(しちゅうこん)[ヤエヤマヒルギなど]。
・地面から上に伸びる櫛のような筍根(じゅんこん)[ヒルギダマシ,マヤプシキなど]。
・一度地中にもぐってから,膝小僧のように根の一部を地上に出す屈曲膝根(くっきょくしっこん)[オヒルギなど]。
・波打つ板のように地面に立ち幹を支える板根(ばんこん)[サキシマスオウノキ,メヒルギなど]。

支柱根(しちゅうこん),筍根(じゅんこん),屈曲膝根(くっきょくしっこん),板根(ばんこん)

 マングローブの根の共通した特徴のひとつは地上に姿を現していることです。満潮時に冠水してしまうような場所では,根が呼吸するための酸素がほとんどなくなってしまいます。そのため,マングローブは根を地上にのぞかせて,大気中から酸素を獲得しているのです。マングローブの根の断面を観察してみると酸素の通り道となっている空隙があることが分かります。また,支柱根や板根などは不安定な底泥で体を支えるのに,とても役に立つ形をしています。汽水域という特殊な環境に対応するために,マングローブ植物は陸上植物とは違った独特の性質や形態を発達させているのです。

マングローブ林の減少

 近年問題とされている熱帯林の減少と同様,マングローブ林も例外ではありません。マングローブ林が減少してきた要因は1つではなく,場所によっても様々ですが,主な要因を挙げるとすると以下の3つがあります。
1.エビ養殖池への転換
東南アジアのマングローブ林が激減した最大の要因は,エビ養殖池への転換であると言われています。現在,世界で消費されているエビの大部分が東南アジアのマングローブ域で生産されています。ここ20~30年の間にタイでは半分近い面積のマングローブ林がエビの養殖池に姿を変えました。インドネシアやベトナムでも,かつてマングローブ林だった場所にエビの養殖池が整然と並んでいるのを見ることができます。養殖池で生産されたエビは世界中へ輸出されています。そして,このエビの消費国第1位は他でもない日本です。
2.製炭材のための伐採
マングローブ樹種で作られる炭は上質で硬くて重く,火力が強くて長持ちします。マングローブ林のそばで生活する人々にとってマングローブ炭は炊事に欠かせないものでした。自家用にそれぞれが炭を作っているうちは問題ありませんでしたが,1960年代以降,農村部での自給自足生活から都市化への社会システムの変化に伴って炭や薪が商品となり,マングローブ林が大量に伐採されるようになりました。
3.農用地への転換
東南アジアでは,とくに第二次世界大戦後に爆発的に人口が増加し,食料獲得のために水田が増設されました。この時,多くのマングローブ林が水田に姿を変えました。しかし,マングローブ林を伐採して水田を作ると,これまで土中で酸素に触れずに存在していたパイライト(黄鉄鉱)が酸化されて硫酸を生じ,強酸性土壌となって稲が育たなくなってしまいます。使われなくなった水田はそのまま放棄されています。

失われていくマングローブ林の機能

  マングローブ林の幹や地上で入り組んだ根は海と陸との間で重要な緩衝場としての役割を持っています。つまり,海からの風や波から陸地を守り,陸からの土砂や汚水の流出を緩衝しています。そのマングローブ林が突然姿を消したため,各地で様々な問題が起きています。フィリピンやバングラディッシュでは台風の高波のために陸地に住む何万人もの人や家や家畜が失われています。また,数十km内陸まで海水が押し寄せるため,水田が塩にさらされてしまいます。一度海水をかぶった水田では数年間は稲が育ちません。今後は地球温暖化の影響で台風が大型化すると予測されており,ますます深刻な問題になっています。ベトナムでは海岸が浸食され,陸からの土砂や富栄養化した生活排水,エビ養殖池からの排水がそのまま海に流れ込んでいます。そのため沿岸海域の汚染が進み,沿岸部に生息する魚介類への影響が懸念されています。

 そもそも,マングローブ林自体が多様な生き物の生息場となっていることが分かっているのです。マングローブ植物が太陽の光と無機栄養で作り出した葉や枝は有機物として林床に供給され,これが分解されて多くの生き物たちの餌となります。また,入り組んだ根っこの隙間は波の影響が緩和されるため,魚などの産卵場所や幼魚の生育場所,隠れ家となっています。マングローブ林がなくなるということは,これらの多様かつ陸上生態系には見られない生物たちが丸ごと全部なくなるということを意味します。世界のマングローブ面積は約1,810万haあります。これは熱帯林の全面積(約13億ha)のわずか1%に過ぎません。希少で独特,そして人間の生活に密接に関わっているマングローブの将来について,真剣に考える時期が来ていることは間違いありません。

(いのうえ ともみ,アジア自然共生研究グループ
流域生態系研究室室)

執筆者プロフィール

 研究者は研究対象に似てくるとか。マングローブのように逞しくなれたらいいなあと思う今日この頃。