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2022年3月11日

地球規模の水銀循環と動態予測

特集 数理モデル的手法を用いた化学物質の環境動態把握

河合 徹

 私達の身のまわりにはたくさんの化学物質が存在していますが、国境を越えて広域に輸送され、生物に蓄積し、また微量で高い毒性を持つ物質については、国際的な管理と排出削減に向けた対策が求められます。本稿で取り上げる水銀はこのような物質の一つです。水銀汚染といえば、地域的な公害問題の印象があるかもしれませんが、環境中での水銀の滞留時間は地球規模で広く拡散するには十分に長いです。例えば、滞留時間は大気中では半年から1年程度、海洋ではさらに長く、300~3000年程度と推定されています。また、水銀は常温で液体の唯一の金属であり揮発性があります。このため、海から大気への輸送量はかなり多く、この量は現在の人為的な排出量を上回ると推定されています。長期的に、地球規模で、複数の媒体に亘る動きを考える必要があるのです。

 2017年に、地球規模の水銀および水銀化合物による汚染、また、それによって引き起こされる健康被害を防ぐことを目的として、水銀に関する水俣条約(水銀条約)が発効されました。これに伴い、人為的な排出量の削減に向けたさまざまな取り組みが実施されています。化学物質の越境汚染を防止するための国際条約は、これまでにもバーゼル条約、ロッテルダム条約、ストックホルム条約などがありますが、水銀条約は水銀に特化した初めての国際条約であり、産出から、使用、廃棄に至る水銀のライフサイクル全般を管理、規制するものです。日本は過去に水銀汚染に関する重大な公害を経験しました。この教訓を踏まえ、条約の履行と、また対策の効果の評価における中心的な役割を担うことが期待されています。本稿では、水銀の環境中への排出、その後の地球規模での循環、また水銀条約の有効性評価に向けた私たちのモデル研究の概要を紹介します。  

 環境中への水銀の排出には地質由来の排出と人為的な排出があります。水銀はもともと地球に偏在する元素であり、水銀含有岩の風化、火山活動など自然プロセスにより環境中に排出されてきました。このような地質由来の排出は、多く見積もっても現在の人為的な排出の半分程度です。人為的な排出の要因はさまざまで、排出地域、排出要因ともに歴史的に変化してきました。人為的な水銀排出が始まったのはかなり古く、貴金属が使われ始めたBC3000年頃といわれています。明確に増加したのは産業革命後の1850年頃からで、19世紀後半にかけての主要な排出源は銀と水銀の生産でした。ゴールドラッシュが終了し、20世紀になると排出源は大幅に多様化しました。高度経済成長期には化学物質の製造や廃棄物の焼却などによって排出量が増加し、1970年以降は、欧米など多くの先進国で規制が実施されました。これにより、これらの地域からの排出は減少しました。現在では小規模金採掘や石炭燃焼などによる、東アジアと東南アジアからの排出が多く、これらの地域からの排出が全世界の4割程度を占めています。

 環境中に排出された水銀は、その後、元素(金属)水銀(Hg0)、酸化態(2価)水銀(HgII)、有機態(モノメチル:MMHg、ジメチル:DMHg)水銀の形態をとりながら、大気—海洋—陸域—生物圏に亘って地球規模で循環します(図1)。私たちが開発している全球モデルは、このような形態変化を伴う水銀の多媒体に亘る循環をコンピューターで計算し、水銀の存在量や輸送量を予測します。大気中の水銀形態は大半がHg(Hg0、海洋ではHgIIです。しかし、量的には少ない水銀形態が媒体間の輸送や生物への移行において重要な役割を担っています。例えば、大気から海や陸への輸送を担う降雨中の主要な水銀形態は比較的溶解度の高いHgIIで、魚類など海洋生物中の主要な水銀形態は生物蓄積性のあるMMHgです。このため、水銀のモデル研究では、形態変化を取り扱うのが不可欠です。 

形態変化を伴う地球規模の水銀循環と海洋生物への移行を示した図
図1 形態変化を伴う地球規模の水銀循環と海洋生物への移行 

 全ての形態の水銀には毒性がありますが、この中で私たちの主な関心は、無機水銀(Hg0、HgII)に比べてはるかに毒性が高いメチル水銀(MMHg、DMHg)です。MMHgは水環境中で嫌気性の微生物によって生成され、その後プランクトンなど低次の生物に分配され、食物連鎖によって魚類などの高次の捕食者に蓄積されます。水環境中での生成場所として、沿岸の堆積物は以前から知られていますが、近年、同位体を用いた研究により遠洋海水中での生成が確認され、これがマグロなどの遠洋魚に蓄積されているという知見が得られてきています。海水とプランクトンのMMHgの濃度比(生物濃縮係数)は平均で2×105程度であり、MMHgの生物への移行の大半がこの過程で起こります。プランクトンに分配されたMMHgの、その後の食物連鎖による濃度の増加率(食物網蓄積係数)は平均で5倍程度です。つまり、植物プランクトンの栄養段階を1とすると、例えば栄養段階4の大型の捕食魚中のMMHg濃度は、海水の2×105×53=2.5×107倍程度になると概算されるわけです。MMHgのヒトへの曝露は、主に水産物の摂取によるため、MMHgの生成プロセスと水産物への移行動態を正確にモデル化し、遠洋海水中でのMMHgの生成速度や分解速度、生物濃縮係数、食物網蓄積係数といったモデルパラメーターを精緻化することが重要です。しかし、残念ながら、遠洋での観測には多大なコストと労力を要することから、これらの実験的なモデルパラメーターに関するデータは非常に少なく、不確実性が大きいです。

 このようにパラメーター推定に関する課題は多く、モデル改良に向けた検討がまだまだ必要です。一方、水銀条約の有効性を評価するためには、全球モデルより予測される生物中の水銀濃度から、これらの摂取によるヒトへの曝露、また、その結果として生じる健康影響や経済損失を推定する必要があります。私たちはこのための統合的なモデル開発を進め、さまざまな排出シナリオを考慮した過去から将来を含む長期的なシミュレーションを実施しています。有効性の指標については議論の余地がありますが、図2は経済損失をこの指標とした場合のモデル概要を示しています。水銀の場合はMMHgの摂取により新生児のIQが低下することが知られています。これによる生涯所得の減少と、出生率やGDPといった人口動態や経済指標から、MMHg曝露による総経済損失を地球規模で概算することができます。また、将来予測を実施するためには、将来の気候、炭素循環、反応物質濃度など、全球モデルに入力するためのデータが必要です。これらのデータを、気候変動予測などに用いられる地球システムモデルより取得し、人間活動と、その結果生じる気候変動の影響を加味した予測を行っています。

水銀条約の有効性評価に向けたモデル開発の概要図
図2 水銀条約の有効性評価に向けたモデル開発の概要

 本稿では重点的に検討を進めている水銀を取り上げましたが、第5期中長期計画の包括環境リスク研究プログラムでは、残留性有機汚染物質など、他の地球規模物質への対応も進めています。

(かわい とおる、環境リスク・健康領域 リスク管理戦略研究室 主任研究員)

執筆者プロフィール:

筆者の河合徹の写真

昨年は引越しと出産で慌ただしい一年でした。パパになって育児に奮闘しています。釣りが趣味で、生命感のある水辺が好きです。

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