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2016年12月28日

草原の炭素の動きを探る

Interview研究者に聞く

 森林や草原などの陸域生態系に蓄積されている炭素の量は、大気中にCO2として存在する炭素の約3倍と多く、わずかな変動でも大気のCO2に大きな影響を及ぼすと考えられています。生物・生態系環境研究センター環境ストレス機構研究室 主任研究員の唐艶鴻さんは、中国南西部にある青海・チベット草原の炭素蓄積量やその動態を調べ、地球温暖化との関連を探っています。

研究者の写真:唐 艶鴻
唐 艶鴻(たん やんほん)
生物・生態系環境研究センター
環境ストレス機構研究室 主任研究員

地球温暖化と森林

Q:草原の研究を始めたきっかけは何ですか?

唐:私の専門は植物生態学です。筑波大学大学院で岩城英夫先生のご指導で日本のススキ草原の生態を研究したことがきっかけです。

Q:博士論文がきっかけでいまの草原の生態学研究を始められたのですね。

観測サイト(クリックで拡大画像を表示)
「青海・チベット草原」を指すおおよその地域(左下図の赤線囲まれた部分)及び土壌調査地点(黒丸)とCO2収支測定場所。楊元合(中国科学院植物研究所)の原図をもとに作成。

唐:はい。1993年に国立環境研究所に入所してからは、当時の地球環境研究グループで温暖化関連の生態学の研究をしていました。日本では、当時も現在も温暖化研究は国内や周辺各国の森林生態系を対象にすることが多く、私もマレーシアの熱帯林の生態を研究していました。しかし、草原は世界の陸域の約4分の1も占めているにも関わらず、15年ほど前までは日本でもアジアでも、草原の温暖化に関する野外調査や観測研究はあまり行われていませんでした。このことが気になり、関連資料を調べたところ、草原の温暖化に関する研究への興味を抱くとともに、草原も温暖化の重要な研究対象になるのではないかとも考えました。そこで上司の鷲田伸明先生に相談したところ励ましていただき、草原の温暖化の研究を始めることになりました。

Q:これまでの温暖化研究で森林を対象にすることが多かったのはなぜですか?

唐:地球温暖化は、大気中のCO2の濃度の上昇が主な原因と考えられています。植物は、光合成によってCO2を吸収し、大気中のCO2濃度の上昇を減速させるので、温暖化の進行を緩和することができます。とくに熱帯雨林などの森林は、大きな樹木で構成されており、それだけたくさんのCO2を吸収できるのではないかとの考えがありました。近年、伐採の進行が深刻なため、森林の減少により大気中のCO2濃度が上昇することが懸念されています。 そのため、地球温暖化研究では、森林の影響に関心が高いのです。

陸域炭素収支における草原の役割

Q:草原も大気中のCO2濃度変化に影響を及ぼす可能性がありますか?樹木に比べると、草のほうがCO2の吸収が少ないのではないですか?

唐:樹木も草も、葉が光合成によってCO2を吸収します。樹木は草より体が大きいのでCO2の吸収「量」も多いと思われがちです。葉の正味の CO2吸収量(または速度)は、光合成によるCO2吸収量(または速度)から呼吸によるCO2放出量(または速度)を差し引いた分です。葉だけで考えると、単位時間、単位葉面積あたりのCO2吸収速度は、草と樹木では大差がないか、草の方が高い場合も多いです。ただ、年間では、草に葉が着いている期間が短いため常緑樹に比べて葉による正味CO2の吸収総量は少なくなります。一方、植物は葉以外の部分でも呼吸をしてCO2を再び大気中に放出します。樹木は体が大きいので呼吸量も多くなりますし、一年生草のような冬に枯れる草に比べ、樹木は一年中生きているため、呼吸量が草よりさらに多くなります。これらのことから、年間のCO2の正味吸収量、すなわち吸収分から放出分を差し引いた炭素の収支は、樹木と草であまり変わりがありません。

Q:では、草の多い草原と樹木の多い森林では炭素収支も変わらないのでしょうか。

唐:草原と森林の炭素収支は、植物だけではなく、土壌中の有機物や微生物の働きも見なければなりません。落ち葉や枯れ枝、枯死根などを由来とする土壌中の有機物は、土壌動物や微生物によって分解され、CO2として再び大気中に戻ります。自然草原の多くは、乾燥あるいは寒冷、または乾燥かつ寒冷な気候条件下にあり、このような気候下では、温暖で湿潤な森林環境よりも微生物による有機物の分解が遅くなります。また一部の湿地や高山草原の土壌は、森林土壌よりも炭素蓄積量がはるかに高いという報告もあります。そこで、植物、土壌と気候環境を総合的に考えれば、地球全体の草原と森林では、単位面積あたりの炭素蓄積量は大差がないと言ってよいでしょう。地球上の森林と草原の面積はほぼ同じですから、陸域の炭素収支を考える場合、草原は森林と同様に重要です。

青海・チベット草原の炭素収支に着目

Q:なぜ青海・チベット草原に着目したのですか。

唐:いろいろなデータを集めて調べた中で私たちが興味を持ったのは、1970年代に行われた中国草原の土壌炭素の調査結果です。それには、青海・チベット草原の土壌炭素の蓄積量が周辺地域の草原に比べて非常に高いことが示されていました。これが、青海・チベット草原に目を向けた理由のひとつです。また、研究を始めようとした2000年頃は、青海・チベット草原は地球上の「最後の神秘的生態系」と呼ばれるほど生態学的研究が少なかったのです。青海・チベット草原の未知の生態系にも強く惹きつけられました。

Q:青海・チベット草原の土壌炭素の蓄積がなぜ非常に高いのでしょうか。

唐:まさに私たちが当初もっとも知りたいことでした。結論を先にいうと、今でも十分にわかっているわけではありません。草原の炭素収支は人間の経済活動にたとえることができます。「貯金」をするためには、「支出」より「収入」が多くならなければいけません。青海・チベット草原の炭素の「収入」にあたるのは植物の光合成、「支出」にあたるのは主に植物や土壌微生物の呼吸です。これらのプロセスと影響要因がわかれば、なぜ青海・チベット草原の炭素の蓄積量が非常に多いのかを説明できるはずだと考えました。

 青海・チベット草原は、昼間の気温が高く夜間の気温が低いことから、昼間は光合成のCO2吸収に有利になりますが、夜は有機物の分解が遅くなります。また、冬は寒冷で乾燥し、期間も長いこと、夏はほかの草原に比べて湿潤で気温も高くなること、いずれも生態系の炭素蓄積には有利に働きます。しかし、このような推測を実証することは、草原炭素の「吸収」と「放出」の詳しいプロセスやその影響要因を現場で観測しなければなりません。既存の土壌の調査が行われた1970年代は、青海・チベット草原の交通事情が極めて悪く、土壌調査が行われた範囲が非常に限られていました。また、当時の分析技術などを考えると、そもそも「青海・チベット草原の炭素蓄積量が高い」という報告自体を確認することが最も重要です。

観測サイトの写真
海北観測サイトの四季(農業環境技術研究所 杜明遠氏提供)
機器設置の様子の写真
チベット当雄湿地サイトで観測機器の設置作業

青海・チベット草原のプロジェクトが立ち上がる

Q:草原生態系の「炭素収支」は、自然の経済学とも言えますね。しかし、これだけ広い草原でどうやって研究場所を決めたのでしょうか。

唐:青海・チベット草原は250万km2以上、日本の陸地面積の6倍以上にもなります。どこでどうやって研究するかはずいぶん悩みました。そこで、現場の状況を把握するため、2000年の夏に、日本側5名の研究者から構成した調査チームを派遣し、中国の北京大学、中国科学院、内モンゴル大学などから多くの研究者の協力を得て、青海、チベットと内モンゴル草原の下見調査をしました。3つの候補地それぞれでの研究の現状や交通事情、生活環境、研究協力者などの情報を集めました。これらの調査結果を検討し、当時の筑波大学の及川武久先生や東北大学の田中正之先生をはじめ、多くの方からご指導とご協力をいただき、翌年から本格的なプロジェクトを立ち上げることができました。

Q:プロジェクトではどんな研究をしたのですか。

機器保守の様子の写真
炭素収支観測機器の保守
青海海北(筑波大学 廣田充氏提供)
調査風景の写真
植物群落の空間構造の調査
青海海北(筑波大学 廣田充氏提供)

唐:1つは、青海草原の炭素収支を把握するための長期観測です。チベット高原の北東部にある中国科学院西北高原生物研究所の試験場、「海北定位站」という場所で、風速や風向、CO2濃度、温度、湿度、降水量、日射量などを観測しました。これらのデータを用いると、草原と大気の間におけるCO2のやりとりの速度を推定できます。農業環境技術研究所の杜明遠さん、川島茂人さんと筑波大学の学生だった加藤知道さんらの協力で、青海・チベット草原における生態系のCO2交換速度の長期観測が始まりました。

 もう1つは、草原の炭素蓄積量を確認するための研究です。青海・チベット草原は、広いだけではなく、場所によって植物の種類、生育状況、気象環境が大きく異なります。たとえば、降水量が少ないところは、砂漠に近い「草原」になりますが、年間降水量が500mm以上になる場所は、発達した湿地草原になります。この草原の種類によって、炭素の蓄積量が大きく異なります。土壌炭素蓄積量の調査は、地下1mのところまで穴を掘り、異なる深さの土壌を採集します。同時に植物の種類を調査し、その乾燥重量も測定します。統計的に信頼性のあるデータを取るためには、1カ所に少なくとも3つ以上の穴を掘らなければなりません。実際には平均標高4000m以上の草原でこのような作業をすることは非常に大変です。

精度の高い調査を実施

Q:どんな場所を調査しましたか。

唐:2000年代になっても青海・チベット草原は、交通事情があまりよくなく、無人地帯や湿地など人が立ち入れないところもたくさんありました。そこで、現地に詳しい研究者に同行してもらい、さまざまな土壌タイプのデータを取れるように道路沿いを調査しました。1年目は、青海省の西寧(シーニン)からチベット自治区の拉薩(ラサ)まで約2000kmの道路沿い約60点を調査しました。

Q:調査の結果、草原には炭素が蓄積していましたか。

唐:二酸化炭素のやりとりの測定結果から、青海省海北草原は正味の炭素を吸収していることがわかりました。例えば、最初の3年間のデータでは、海北草原は冷温帯針葉樹林と同じ量の正味CO2を吸収しているといえました。しかし、気候の変動や放牧の影響を受けて、なかなか正確に吸収を評価することはできません。一方、広範囲の土壌調査結果から、青海・チベット草原に蓄積した炭素量は、1980年代の調査結果に比べてかなり値の少ない地点が多かったのですが、一方で蓄積量の多い場所もありました。大草原は、場所によって気候条件や地質、地形、植物の種類、人為的な影響など多くの要因が異なり、草原全体の炭素蓄積量を把握することは簡単ではありません。私たちのプロジェクトはこれまでに例のない高い精度の調査をすることができましたが、草原が広大なことを考えるとまだ不十分かもしれません。

調査風景の写真
植物現存量の調査
青海海北(筑波大学 廣田充氏提供)
調査風景の写真
植物種多様性調査
青海海北(筑波大学 廣田充氏提供)

過酷な環境が招く苦労

Q:調査ではどんな苦労がありましたか。

唐:青海・チベット高原は標高が高いので、高山病にかからないように注意しなければなりません。これまで高山病に耐えられずにすぐに帰った人もいました。高山病以外にも、天候の激しい変化に慣れなる必要があります。山の天気は変わりやすく、真夏のように暑いときもあれば、急に雹が降ってくることもあります。このような環境での作業は体力の消耗も大きいですね。

 山の天気は変わりやすく、真夏のように暑いときもあれば、急に雹が降ってくることもあります。このような環境での作業は体力の消耗も大きいですね。

Q:どうやってそのような苦労を乗り越えたのですか。

唐:高山病は根本的な対策がなく、慣れるしかありません。プロジェクト参加者の安全なども十分に配慮しなければなりません。土壌炭素調査は主に北京大学の学生に依頼しましたが、十分な体力をつけないと調査に参加させないと大学の先生から聞きました。学生には高山病や体力消耗に備えるため、調査する前の2カ月間は、毎日ジョギングなどのトレーニングをしてもらったそうです。夏休みに調査をしながらチベット高原の自然も楽しめるので、調査に必要な十分の人数の学生が集まってくれました。

Q:今後はどのように研究を進めたいですか。

唐:東アジアの草原の生物多様性、特に多様性と温暖化の関連についてもっと明らかにしたいです。東アジアの草原は世界のほかの草原と比べて生物多様性が非常に高いことが知られていますが、アクセスが困難なことなどから謎が多く、興味深い課題があると思っています。

 さらに、人類の草原との付き合い方にも興味があります。草原生態学の研究では、草原を探ってさまざまな自然の法則を理解することはもちろんですが、人類がどのように草原を利用し、草原生態系の一員として草原と共存していくかも重要な課題になるでしょう。特に、チベット草原を含むユーラシア大草原地域の将来に対して生態学がどのように貢献できるかも考えてみたいですね。

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